主教による降臨節の黙想:降臨節第三主日

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 「メシア(救世主)」とは私たちを「罪」から救い上げて下さる、そういうメシアであられます。そして、「罪」というと「犯罪」の方へ気が引かれてしまいがちですが、聖書が言う「罪」とは砕けた言い方をすれば「自分など、もう神様から見放されてしまったし、もう神様の元へ立ち返る資格などないし、神様のほうも、こんな自分など受け入れて下さらない!」という具合に、自分自身が思い込み、決め付けてしまう事と無縁ではありません。
 しかし、それに向かってイエス様が言われ続け、なさり続けることとは、「いや、決してそうでは無いのだよ!あなたが本気になった時その心を、姿勢を、神様はチャンと見て取っておられるのだよ!」「そういう金縛りのような状態から一刻も早く人を解き放ち、凝り固まった心を緩めたいのだよ!」「それこそが、私のなすべき業であり、務めなのだよ!」です。
 では、それを一体イエス様はどのような形でなさったのかとなりますと、聖書の中には、「罪の赦し」もさることながら「罪からの赦し」「罪からの解き放ち」と言った方が良い話が幾らでも福音書にあります。イエス様のなさり方とは、罪の意識に苛まれ、苦しみ続けてきた人に向かって心の底からの励ましと慰め、共感を持ちながら希望を与えられることです。また、イエス様に於いて「罪の赦しと癒し」とは、切っても切り離せないものです。人が真剣にイエス様に食らいついていく、そういう姿を見せる時、その人を再び立ち上がらせ、その人と一緒に立ち上がって下さる、そういうイエス様です。
 イエス様を通して働かれ神様は、ご自身が造られ、命を吹き込まれた人間の持つ痛みを知り、神様ご自身も痛まずにはおられない方です。そして、そういう神様の心を信仰によって掴み取った人たちの身の上に起こり始めたのが「回心」です。イエス様の方から、神様の方から差し伸べられている、その手に人が触れ始めた、そこに芽生えるのが回心であり、その時、人はそこから再び神様によって立ち上げられ始める、それこそが、イエス様の言われたこと、なさったことです。
 イエス様の心を引き付け、イエス様が心を砕かれた「罪人」たちを目の前になさってイエス様は、罪の解説はなさいませんでした。個々の罪をあげつい糾弾したり、徒に消し去ったりなさいませんでした。そうではなく、自らと真剣に向き合い、苦しみ悩んでいる人たちの中へと一層食い込んでいらっしゃいました。その人がどれ程重いものを抱え生きてきたのか?その人が今日迄の人生の中、それ程心傷め、涙してきたのか?イエス様のなさり方とは、真剣に苦しみ、もがいている心への共感であり、そういうイエス様の眼差しが私たちにも注ぎ込まれ続けていることを覚えながら、ご降誕への更なる備えて整えていきたいものです。