主教教書(19) 「緊急事態宣言再度発令の中にあって」

「緊急事態宣言再度発令の中にあって」

日本聖公会東京教区
各教会・礼拝堂・教役者・信徒の皆さま
2021年1月7日

東京教区主教           
フランシスコ・ザビエル高橋宏幸

東京都のコロナウイルス感染症の更なる深刻化を鑑み、「いのちを守り合うこと」「教会の社会的責任を果たすこと」の当初からの二本柱に則し、12月27日(降誕後第一主日)以降、会衆参加の礼拝・公祷休止が継続されております。
その中、本日1月7日、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県に「緊急事態宣言」再発令が決定されました。また、専門家からは「感染爆発」という発言もなされています。期間は一ヶ月程とされておりますが、今後の確かなことは不明な折でもあります。これらを受け、これまでにも注意に注意を重ねてこられた中、一層の冷静さと落ち着いた生活をお祈り申し上げますとともにお願い申し上げます。

会衆が集えずとも、教役者は教会、礼拝堂を代表し礼拝と祈りを各教会、礼拝堂で守っております。このことはキリストの教会と全世界のための祈り、信仰の業でもあります。決して、教区内の全教会、礼拝堂から一切の礼拝や祈りが消えたわけではありません。
今後も祈祷書中の諸礼拝、祈りなどを用いて、神様との交わりの時を持たれることをお勧め致します。自宅で祈られることも、命を守り合うことに通じる大切なことです。

種々の方法による信徒の方がたへのケアと祈りなど、教役者各々の賜物を活かした形での聖務遂行を切にお願い致します。
今後も引き続き、教会運営に支障のない限り、種々の会合は自粛を要請致します。

私たちは異なった場所で祈りを捧げるとしても、その祈りは教会共同体の祈りとなり、祈りの輪、連帯を形作り、主イエス・キリストと父なる神様との交わりに重ね合わされ、聖なる捧げものとされます。引き続き、主日正午、お昼時の忙しい時間ですが心と言葉を合わせて、主イエス・キリストが授けてくださった「主の祈り」をそれぞれが居られる場所で、捧げ合いたいと思います。私自身も祈ります。皆さまもご一緒にお祈りください。他の方々にも祈りに加わってくださるよう、お知らせとお勧めをお願い申し上げます。

「当たり前」と思ってきたことが実は当たり前ではない中、めまぐるしい技術革新なども相まって、さらにスピードアップしている社会・経済の変化の中で「いったん立ち止まる」ことも通して、見逃してきたこと、聞き逃してきたこと、忘れていたことなどを見直し、考え直す機会ともしたいと思います。
困窮する方がた、また多大な負担を余儀なくされている方がたが優先され、最善の措置が図られることも祈りに加えたいと思います。そして、より良い行動に努めたいと願います。

罹患された方がたの回復、医療現場に於いて命がけで献身、尽力しておられる方がた、エッセンシャルワーカー、社会福祉施設、高齢者施設、幼稚園、保育園等のお働きと、そこで献身していらっしゃる方がたのお働き、生活上の不安、困難を余儀なくされている方がたへの支え、ご逝去された方がたの魂の平安と悲しみの内にある方がたへの慰め、そしてこの危機の収束を切にお祈り致しましょう。
また、罹患された方がたへの偏見や差別に陥らぬよう併せて祈ります。

「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」 (イザヤ書第60章2節)


2021-01-06(水) 07:30:顕現日聖餐式・教区主教メッセージ

https://cattyo-news.blogspot.com/p/202116.html (録画にて配信) 

司式・説教:主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋宏幸
補式:司祭 フランシス 下条裕章

主教による降臨節の黙想:降誕日

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 クリスマスに読まれる聖書やこの日の根底には、「新しい」というテーマが在ることに気付かされます。同時に、イエス様のお誕生を巡って「全てのものが、新しくされた!」と言われます。そこには「今まで支配していたのとは違う状況が、イエス様によって生み出されていく」という意味合いが込められています。
 では、イエス様のお誕生を境にして、それ迄と違う何が起こってきたのかと言いますと、イエス様がお生まれになる前(お生まれになってからもですが)人々を縛り、世の中で幅を効かせ、あたかも主のように振る舞っていたものは「律法」であり、パウロ曰く「養育係」のようなものでした。けれども、今やイエス様がお生まれになり、人々のただ中にお出でになられた結果、人々は養育係の下にいるのとは、全く違う状況に置かれ始めました。
 このことは、紆余曲折あるものの、神様から一人一回限りの人生を有り難く戴き、大事なものとして生きていこうとする人にとっては、「自分の足で立てるのだよ!」「その時、私が一緒になって、お前と何度でも立ち上がってあげるよ!」というイエス様のメッセージは、この上無く力を与えてくれるものとなりました。
 福音書には、イエス様のお誕生の光景がありますが、それは幼子の姿から始まるものでした。そして、それが私たちに伝えてくれているのは立派な完成品か、それに近い者となったから神様はお恵みをくださるというのではなく、神様に造られた本来の姿に立ち返るところに神様の恵みは一層大きく注がれるという意味で、イエス様のお誕生とはそのことへの希望の先取りでもあります。
 人は誰しも、弱さも影の部分も持っていますが、イエス様がおっしゃるのは、そういう自分を認め、誤魔化さずに「この私に従いなさい!」というものであり、斯くして、律法では乗り越えられなかったことがイエス様によって乗り越えられるようにされました。
 私たちの一切を清濁併せて受け止めて下さった上で、尚且つ見捨てることも、見限ることもなく私たちへの愛を注ぎ続けて下さる、それこそが「愛の神」の働きであり、その神様へ感謝を捧げること、それはクリスマスの大きなテーマの一つと言えましょう。
 「今の精一杯のあなたを私に献げなさい そして、そこから神様によって、更に豊かにされ始めなさい 新しいスタートである「今」というこの時を大事にすることから始めていきなさい 何故なら私が在る! 私が居るから!」
 「私は在る」、これは古くは「出エジプト」に先立ってモーセに自らの心を打ち明けられた神様のメッセージであり、イエス様に於いては、ゲッセマネの園でご自身のことを告げられた言葉、それが「私が在る!」です。しかも、その何れもが人々に恐れを、不安を抱かせる暗闇の中や孤独の中での、神様の威厳に満ち満ちた語りかけの言葉です。
 「私が在る!」「私がいるのだから!」、これはイエス様のお誕生に集中されますが、単に二千年前にユダヤのベツレヘムの馬小屋で起こった、今となっては懐かしい出来事ではなしに、今まさに、この私たちが生かされている、私たちの命の営みの中での出来事に他なりません。
 例え、暗闇の中、迷いの中で在ってさえも、「私は在る!」「私がいるのだから!」という神様の揺るぎない御心に、私たちの方からも心を向け続けたいものです。
 「私が在る!」「私がいるのだから!」という神様の御心、神様からの確約が人となられた方のお誕生をお祝いし続けますとともに、その方への信頼が、一層増し加えられますよう祈りたいと切に願います。

 クリスマス、おめでとうございます!


「主日正午の主の祈り」のお知らせ、再稼働

昨日付で出された主教教書にて、「主日の正午に主の祈りを一緒に唱える」ことを髙橋主教様が再度呼びかけられました。

これを受け、11/22にていったんお休みしていました「主日正午の主の祈りのお知らせ」を再度稼働いたします。

主教座聖堂のTwitterとFacebook、それとメーリングリスト(ML)を利用してお知らせいたします。すでに登録されている方には、またメールが届くようになります。これを機会にお知らせメールを受け取りたいという方は、以下のページの案内をご覧ください。

https://cattyo-news.blogspot.com/2020/05/blog-post_23.html


主教教書(18) 「コロナウイルス感染症の最近の状況の中で」

「コロナウイルス感染症の最近の状況の中で」

日本聖公会東京教区
各教会・礼拝堂・教役者・信徒の皆さま
2020年12月19日

東京教区主教           
フランシスコ・ザビエル高橋宏幸

各教会・礼拝堂におかれましては、既にクリスマスに向けての出来得る限りの備えと工夫を重ねに重ねて進めてこられたことと思います。
しかしながらここ数日、殊に東京都におけるコロナウイルス感染症数、陽性率の激増を目の当たりにしております。また、12月17日には医療提供体制警戒レベルは、最も深刻な「体制が逼迫している」(レベル4)に引き上げられました。クリスマスへ向けて種々の備えをしてこられた一方で、不安や迷いも増しておられることと思います。

そこで、イブ礼拝、及びクリスマス礼拝については休止の可能性も含め再検討をお願い致します。但し、これまで入念に準備をしてこられたことも配慮し、礼拝をおこなう際には一層の予防と気持ちの引き締めをお願い致します。
なお、12月27日(降誕後第一主日)以降、首都圏、殊に東京都のコロナウイルス感染症の最近の深刻化を鑑み、当初からの二本柱である「いのちを守り合うこと」「教会の社会的責任を果たすこと」を重んじ、医療提供体制警戒レベルが「3」になる迄を目安に、礼拝・公祷(会衆参加の礼拝・公祷)を休止と致します。

但し、教会・礼拝堂の全ての営みの休止、あるいは閉鎖ではなく、以前にもお伝えしましたように、私たちキリストの教会は祈りを止めることは決してあり得ません。今は私たちにとって信仰の鍛錬、霊的闘いの時でもありますが、同時に聖パウロが力強く伝えていますように「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」「あなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」への一層の応答の時にもなるはずです。

再度の礼拝・公祷休止により会衆が集えずとも、教役者は教会、礼拝堂を代表し礼拝と祈りを各教会、礼拝堂で守っております。従いまして、教区内に全ての教会、礼拝堂から一切の礼拝や祈りが消えたわけではありません。このことは教役者個人の霊的養いや訓練に止まるものではなく、キリストの教会と全世界のための祈り、信仰の業でもあります。

また、それぞれの場所での一人一人の祈りの内にキリストと繋がり一致を求めることは、教会の大切な伝統です。この困難な時こそ、み言葉を一層深く聴き、み言葉に仕え、宣べ伝えるという使命を忘れることなく、様々な不安や戸惑いを乗り越え、感染拡大を防ぐべく、私たちはキリスト者として各々の場所で一人で祈っている時でさえも、主イエス・キリストの体である一つの共同体に結ばれて続けているという信仰を共にし、確かめ合いたいものです。個々の信仰や霊性の大切さももちろんですが、そこだけに止まらず互いの配慮、「God First You Second I Third」を、キリストにある私たちの一致の指標にしたく願います。
そのためにも、今後も引き続き、祈祷書の「朝の礼拝」「朝の祈り」「聖書日課」などを用いて、神様との交わりの時、祈りの時を持たれることをお勧め致します。自宅で祈られることも命を守り合うことに通じます。

前回の礼拝・公祷休止の際にも各教役者によるホームページ等を活用した配信、メールやFAX、郵送による説教送付、また手紙や電話による信徒の方がたへのケア、祈りと黙想、み言葉に向き合う時間の増加など、教役者各々の賜物を活かした形での聖務遂行を切にお願い致します。
また、12月27日(降誕後第一主日)以降の礼拝・公祷の再度休止に伴い、教会運営に支障のない限り、種々の会合は自粛を要請致します。但し、礼拝堂の扉を開けておくことは構いません。ご葬儀は十分な配慮の下、執行は構いません。

私たちはそれぞれ異なった場所で祈りを捧げるとしても、その祈りは決して個々人の祈りではなく、教会共同体の祈りとなり、祈りの輪、祈りにおける連帯を形作り、主イエス・キリストと父なる神様との交わりに重ね合わされ、聖なる捧げものとされます。
そこで、復活日に実施致しましたが、主日正午には、お昼時の忙しい時間ですが、一旦手を止め、心と言葉を合わせて、主イエス・キリストが授けてくださった「主の祈り」をそれぞれが居られる場所で、心を込めて捧げていただきたいと思います。私自身も祈ります。皆さまもご一緒にお祈りください。また、他の方々にも祈りに加わってくださるよう、お知らせとお勧めをお願い申し上げます。

既にお伝えしていますが、万が一感染された方が出た際には速やかに教会、及び教区事務所総主事(下条司祭)宛に通知ください。プライバシーには配慮し対応致します。

罹患された方がたの回復、医療現場に於いて命がけで献身、尽力しておられる方がた、エッセンシャルワーカー、社会福祉施設、高齢者施設、幼稚園、保育園等のお働きと、そこで献身していらっしゃる方がたのお働き、生活上の不安、困難を余儀なくされている方がたへの支え、ご逝去された方がたの魂の平安と悲しみの内にある方がたへの慰め、そしてこの危機の収束を切にお祈り致しましょう。
また、罹患された方がたへの偏見や差別に陥らぬよう併せて祈ります。

み子の訪れによってわたしたちを清め、心の闇を照らしてください。 アーメン

苦渋の選択、決断でありますが、皆さまのご理解、ご協力の程、切にお願い申し上げます。

主教による降臨節の黙想:降臨節第四主日

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 使徒聖パウロは、様々な地域に向かって書いた数手紙の中で「異教徒の多い土地では、幾らイエス様の教えを伝えようとしても、ばかげたものとしてしか受け取って貰えず、苦労し、辛い思いをしている!」ということを綴りました。しかも、ただ「ばかげている」というだけでなく、イエス様の教えやご生涯そのものが人々には躓きにさえなっていると。
 クリスマスと言えばロマンチックで、ウットリするものになりがちですが、最初のクリスマスは、それとは大きく掛け離れ、むしろ正反対であったとさえ言えます。生まれたてのイエス様や後の使徒たちにしてみれば、記憶には無くて当然かも知れませんが、イエス様を産み落としたマリアとなると記憶に無いとか、忘れたでは済まされません。
 ある日、何の前触れも無しに大天使ガブリエルがナザレという当時は名もない小さな町に住む、マリアという名の少女の元へ突如現れます。そして、突如突拍子もないことを言い出します。
 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる! あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む」と。
 マリアは当初抗いますが、そのような事はお構い無しかのように天使は続けます。「主があなたと共におられる!」と。
 さらに天使ガブリエルは、不安と恐れで一杯の気持ちでいっぱいのマリアに告げます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と。やがてこのことは神様からの祝福、全ての人々に及ぶ喜ばしい、感謝すべき出来事へとなっていきます。
 では、一体この事件のどこが「祝福」であり、「お恵み」なのだろうかと言いますと、短い言葉になりますが「神様が一緒におられるから!」です。それも、ただ漠然と一緒にではなく、一緒に居続けて下さることの中でマリアの苦しみ、胸が掻きむしられるような思いの一切を一緒に背負って下さる、だからこそ、お恵みであり、幸いなのだと福音書は力強く宣言します。
 もし仮に、神様が「やはりマリアには気の毒だ」ということで、この事件から外されたなら、「恵まれた方、あなたは神から恵みをいただいた」という言葉は、聖書には書き残されなかったことでしょう。
 しかし、そうではなしに、神様に何とか従いたいと努めるマリアと、神様がそのマリアと一緒に居続けようとされることの中で、マリアが背負わされているものを分け合い、背負って下さる、そして神様に仕え、献げ、従おうとするゆえに苦しむマリアと一緒になって苦しんで下さる、そういう神様のなさり方こそが、まさしくお恵みと言えましょう。。
聖書が、キリスト教が、その当初から大事にし続けてきていることとは、絶望とか不幸と思える、或いはそうとしか見て取れないような中にさえも、実は神様が確かに居続けて下さり、尚且つ一緒に何かを背負い、塗れ、歩んで下さる、そういう神様への、イエス様への信頼の上に立って、初めてキリスト教はキリスト教たり得ます。
 間もなく、神様の方から私たちの中に入り込まれ、食い込んで来られる大事件を迎えます。それを迎え入れる、私たちの備えを更に整え上げていきたく祈ります。


主教教書(17) 「ご降誕の時に向けて」(Ⅱ)

「ご降誕の時に向けて」(Ⅱ)

各教会・礼拝堂・教役者・信徒の皆さま
2020年12月12日

東京教区主教           
フランシスコ・ザビエル高橋宏幸

クリスマスを目の前にする時となりました。既に前文書にも記しましたが、例年、クリスマスは日ごろ教会に来ることができない方がた、信徒ではない方がた等、多くの方がたが礼拝に参加される喜ばしい時でもあります。
しかしながら、現在新型コロナウイルス感染症第三波の勢いは衰えず、日本各地で過去最大の感染者数が更新され続けています。
当初から大事にし続けてきています「いのちを守り合うこと」「教会の社会的責任を果たすこと」は未だ外すことはありませんし、引き続き最優先させてまいります。
殊に「医療現場崩壊」という言葉を耳目にしない日々がない中、自分が感染しないだけではなく、他者に感染させない配慮は信仰の在り方と無縁ではないはずです。

これまでも申し上げてきたことですが、各教会・礼拝堂での慎重に慎重を重ねての最善の備え、対応に感謝申し上げます。礼拝や設備等への調整や工夫を重ねておられる中、慣れていくことが良いものと、「気の緩み」という慣れてはいけないものがある中で、降誕日、顕現節に向かい、教会委員会等で礼拝のあり方や集まりの方法など話し合いを重ねてこられたと思います。インフルエンザへの不安も高まる折ですので、更なる慎重と用心の上、諸々の判断をされますようお願い申し上げます。
また信徒、教役者の皆さまには、引き続いて、手洗い手指の消毒、マスクの活用など基本的な感染症予防対策にご留意いただきますようお願い申し上げます。

前述のように「三つの密」を避けるために、例年のような多くの方がたに自由に参加していただく形は難しいことは歴然としています。
各教会・礼拝堂の規模や状況にもよりますが、礼拝回数、礼拝時間、礼拝参加形式への一層の配慮と工夫をお願い申し上げます。
また、例年行なわれています飲食を伴う「クリスマス祝会・愛餐会」は、残念ですが自粛くださるようお願い申し上げます。

今年は、主のご復活を集まって感謝し、祝うことができず、ご降誕も制限のある中でのこととならざるを得ません。物理的、身体的に共に集まることが難しい時であればこそ、「祈りと霊的なつながり」の中に居られる主の働きを信じ、祈り求めましょう。
「私たちを今後ひどく襲う危険があるのは、無関心な利己主義というウィルスです」という、フランシスコ教皇の言葉も深く心に留めたいと思います。

これも既にお伝えしていますが、万が一感染された方が出た際には速やかに教会、及び教区事務所総主事(下条司祭)宛に通知ください。プライバシーには配慮し対応致します。

罹患された方がたの回復、医療現場に於いて命がけで献身、尽力しておられる方がたのお働き、エッセンシャルワーカーの方がたのお働き、生活上の不安、困難を余儀なくされている方がたへの支え、ご逝去された方がたの魂の平安と悲しみの内にある方がたへの慰め、そしてこの危機の収束を切にお祈り致しましょう。
また、罹患された方がたへの偏見や差別に陥らぬよう併せて祈ります。

み子の訪れによってわたしたちを清め、心の闇を照らしてください。 アーメン

ご理解、ご協力の程、切にお願い申し上げます。

12月19日(土) 執事按手式の配信について

次週土曜日、12月19日(土)午後2時半より、セシリア下条知加子聖職候補生の執事按手式が行われます。

感染症対策のため参加者が限られていますが、どうぞ配信を利用してご一緒にお祈りくださいますようお願いいたします。
 

主教による降臨節の黙想:降臨節第三主日

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 「メシア(救世主)」とは私たちを「罪」から救い上げて下さる、そういうメシアであられます。そして、「罪」というと「犯罪」の方へ気が引かれてしまいがちですが、聖書が言う「罪」とは砕けた言い方をすれば「自分など、もう神様から見放されてしまったし、もう神様の元へ立ち返る資格などないし、神様のほうも、こんな自分など受け入れて下さらない!」という具合に、自分自身が思い込み、決め付けてしまう事と無縁ではありません。
 しかし、それに向かってイエス様が言われ続け、なさり続けることとは、「いや、決してそうでは無いのだよ!あなたが本気になった時その心を、姿勢を、神様はチャンと見て取っておられるのだよ!」「そういう金縛りのような状態から一刻も早く人を解き放ち、凝り固まった心を緩めたいのだよ!」「それこそが、私のなすべき業であり、務めなのだよ!」です。
 では、それを一体イエス様はどのような形でなさったのかとなりますと、聖書の中には、「罪の赦し」もさることながら「罪からの赦し」「罪からの解き放ち」と言った方が良い話が幾らでも福音書にあります。イエス様のなさり方とは、罪の意識に苛まれ、苦しみ続けてきた人に向かって心の底からの励ましと慰め、共感を持ちながら希望を与えられることです。また、イエス様に於いて「罪の赦しと癒し」とは、切っても切り離せないものです。人が真剣にイエス様に食らいついていく、そういう姿を見せる時、その人を再び立ち上がらせ、その人と一緒に立ち上がって下さる、そういうイエス様です。
 イエス様を通して働かれ神様は、ご自身が造られ、命を吹き込まれた人間の持つ痛みを知り、神様ご自身も痛まずにはおられない方です。そして、そういう神様の心を信仰によって掴み取った人たちの身の上に起こり始めたのが「回心」です。イエス様の方から、神様の方から差し伸べられている、その手に人が触れ始めた、そこに芽生えるのが回心であり、その時、人はそこから再び神様によって立ち上げられ始める、それこそが、イエス様の言われたこと、なさったことです。
 イエス様の心を引き付け、イエス様が心を砕かれた「罪人」たちを目の前になさってイエス様は、罪の解説はなさいませんでした。個々の罪をあげつい糾弾したり、徒に消し去ったりなさいませんでした。そうではなく、自らと真剣に向き合い、苦しみ悩んでいる人たちの中へと一層食い込んでいらっしゃいました。その人がどれ程重いものを抱え生きてきたのか?その人が今日迄の人生の中、それ程心傷め、涙してきたのか?イエス様のなさり方とは、真剣に苦しみ、もがいている心への共感であり、そういうイエス様の眼差しが私たちにも注ぎ込まれ続けていることを覚えながら、ご降誕への更なる備えて整えていきたいものです。
 

 

主教による降臨節の黙想:降臨節第二主日

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 洗礼者ヨハネがイエス様の道備え役として登場しますが、その言葉は、人々を一刀両断するような響きを持ち合わせ「自己変革」を迫るようなものでもあります。
 私たちは「自分らしく生きたい」と願っていますが、聖書のメッセージに立ち返ってみますと「神様の似姿に造られている者(私たち)」という言葉が目に留まります。言葉を足せば、自分らしさとは、神様から他でも無いこの自分に授けて戴いている命という宝を責任をもって使いながら、その中で自分にしか残すことの出来ない人生の足跡を刻み、与えられた日を生き抜いていくことであると言えましょう。
 しかし、一方で私たちはしばしば周りの期待やイメージに左右されてもいます。周りが勝手に作るイメージや、その人らしさなるものがあって、それに応えようとして頑張ってみたり、それに縛られ、振り回され、苦しくなったりもします。実際、イエス様も周りから実に勝手、且つ無責任なイメージを作られもしました。今もそのことは否定できません。けれども、イエス様はその都度それを打ち破りながら一貫して「神の子」としての道を歩み続けられました。
 私たちはイエス様と全く同じとはいかないかも知れませんが、少なくとも神様に造られている神様にとっての作品、神様にとっての宝物であるという事を大事にしようという生き方は、私たちに新しい出発を与えてくれるでしょう。
 確かに、昨今のような目まぐるしい世の中、煩わしい世の中に在って、自分らしく生きる、神様に造られ、命という宝物を授かっている自分を保つとか回復すること、それは並大抵の事ではないでしょうが、しかし時にそれは、悪の中に在っても、善を保つこと、毅然としていること、周りの勝手なイメージや噂に振り回されないことに通じるところが大いにあるようです。
そして、何よりも大切なのは、神様との対話を優先させる生き方でしょう。周りの評判やらに一喜一憂するような自分を作り上げていく前に、神様の眼差しの中に在って自分を整えていくことでありましょう。
 しかし一方、神様の眼差しの中に在って自分を整え上げていくことは、辛さや大変さ、苦しみや孤独感も伴うこともありますが、それから逃げてばかりでは、自分らしさを手にする事は難しいでしょうし、下手をすれば「人生、一生逃げ」ともなりかねません。取り分け、イエス様に於いては最大級と言える苦しみや辛さ、孤独感を嫌と言う程に噛味わわれました。しかし、いつでも神様の眼差しの中に在り続けられたからこそ、底知れない優しさと労り、憐れみを備えてもいらっしゃいました。
 人間は同じ作業しか繰り返せない機械、インプットされたものしか引き出せない機械とは違います。二度と無い掛け替えのない人生、今という時をより実りあるものとして過ごすために、神様の作品である自分らしさへの気付きと感謝こそが、二度と無い掛け替えのない人生をより実りあるものとして過ごす術となりましょう。一つ一つの事柄に出来る限り心を込めていく時、人はその人にしか残すことの出来ない足跡なるものを刻み始めるのでしょう。イエス様のご降誕へ向かっての、黙想の手掛かりの一つにできればと願います。


主教による降臨節の黙想:降臨節第一主日

前主日をもって、毎週続けられてきた聖餐式の映像配信は終了しましたが、降臨節を迎え、毎主日の福音の黙想を髙橋主教が執筆してくださいます。

明日、降臨節第一主日の黙想はこちらです。この黙想は、「自宅で行う主日礼拝」のページにも掲載されます。

教会に行ける時も、行けない時も、主日に福音のメッセージと共に過ごす時を大切にして、主のお生まれの喜びを共にいたしましょう。

2021年度の「主日の福音に聴く」、開講です

いよいよ来週から教会の暦は新しい年度に入ります。 

新年度も、どうぞ「主日の福音に聴く」をご利用ください! 

http://www.anglicancathedral.tokyo/fukuin/index.html

2020-11-28(土) 17:00:光の礼拝

2020年11月28 日(土)午後5時
司式 : 髙橋宏幸 主教
説教 : 髙橋 顕 司祭

配信トラブルのためにご迷惑をおかけした皆様にお詫び申し上げます。

録画ビデオ

式文はこちら