主教による降臨節の黙想:降臨節第二主日

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 洗礼者ヨハネがイエス様の道備え役として登場しますが、その言葉は、人々を一刀両断するような響きを持ち合わせ「自己変革」を迫るようなものでもあります。
 私たちは「自分らしく生きたい」と願っていますが、聖書のメッセージに立ち返ってみますと「神様の似姿に造られている者(私たち)」という言葉が目に留まります。言葉を足せば、自分らしさとは、神様から他でも無いこの自分に授けて戴いている命という宝を責任をもって使いながら、その中で自分にしか残すことの出来ない人生の足跡を刻み、与えられた日を生き抜いていくことであると言えましょう。
 しかし、一方で私たちはしばしば周りの期待やイメージに左右されてもいます。周りが勝手に作るイメージや、その人らしさなるものがあって、それに応えようとして頑張ってみたり、それに縛られ、振り回され、苦しくなったりもします。実際、イエス様も周りから実に勝手、且つ無責任なイメージを作られもしました。今もそのことは否定できません。けれども、イエス様はその都度それを打ち破りながら一貫して「神の子」としての道を歩み続けられました。
 私たちはイエス様と全く同じとはいかないかも知れませんが、少なくとも神様に造られている神様にとっての作品、神様にとっての宝物であるという事を大事にしようという生き方は、私たちに新しい出発を与えてくれるでしょう。
 確かに、昨今のような目まぐるしい世の中、煩わしい世の中に在って、自分らしく生きる、神様に造られ、命という宝物を授かっている自分を保つとか回復すること、それは並大抵の事ではないでしょうが、しかし時にそれは、悪の中に在っても、善を保つこと、毅然としていること、周りの勝手なイメージや噂に振り回されないことに通じるところが大いにあるようです。
そして、何よりも大切なのは、神様との対話を優先させる生き方でしょう。周りの評判やらに一喜一憂するような自分を作り上げていく前に、神様の眼差しの中に在って自分を整えていくことでありましょう。
 しかし一方、神様の眼差しの中に在って自分を整え上げていくことは、辛さや大変さ、苦しみや孤独感も伴うこともありますが、それから逃げてばかりでは、自分らしさを手にする事は難しいでしょうし、下手をすれば「人生、一生逃げ」ともなりかねません。取り分け、イエス様に於いては最大級と言える苦しみや辛さ、孤独感を嫌と言う程に噛味わわれました。しかし、いつでも神様の眼差しの中に在り続けられたからこそ、底知れない優しさと労り、憐れみを備えてもいらっしゃいました。
 人間は同じ作業しか繰り返せない機械、インプットされたものしか引き出せない機械とは違います。二度と無い掛け替えのない人生、今という時をより実りあるものとして過ごすために、神様の作品である自分らしさへの気付きと感謝こそが、二度と無い掛け替えのない人生をより実りあるものとして過ごす術となりましょう。一つ一つの事柄に出来る限り心を込めていく時、人はその人にしか残すことの出来ない足跡なるものを刻み始めるのでしょう。イエス様のご降誕へ向かっての、黙想の手掛かりの一つにできればと願います。