大斎節第二主日の黙想

主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋宏幸

 大斎節や聖週には黙想をする機会が多くありますが、黙想とは唯口を閉じ、黙っていることではありません。寧ろ、普段以上に喋ることでもありますが、それは、世間話や噂話に花を咲かせるお喋りではなく、徹底的に神様と話し込むことです。
  世の中、言った本人でさえも気付かなかったり、覚えていなかったりする些細な言葉が、誰かの力となったり、愛の籠もった言葉になったりすることがあります。
 正反対のことも起こり得ますが、言葉には何かしら力が秘められていることはどちらの場合にも当てはまります。
 あるカトリックの幼稚園で教えている有名な歌です。「善いお話をするために、神様は私たちに小さなお口を下さった!」単に可愛らしいだけではなく、信仰的にも霊的にも深みのある歌詞であると同時に、私たちを振り返らせる厳しい歌詞でもあると思えます。
 口の不自由な方もおられる一方で、何不自由無く言葉を使える中、果して与えられている口、教えられた言葉を、与えられたことに相応しく使っているかとなると自信をもって「然り」とは言い難いところが私自身あります。悪口、陰口、噂話、知ったかぶり、大言壮語に言葉が使われもします。
 今一度聖書に立ち返りますと、一人の人間の言葉にさえ計り知れない力が秘められているなら、生きた神様の御言に於いては況しておやです。また、癒しの力ということで、福音書の中にこういう事件が記録されています。あるローマの兵隊が、部下が病に苦しんでいたため自らイエス様の元へ足を運び、部下を癒して戴きたいと願い出ます。その上官の姿に心打たれたイエス様は言われます。「わたしが行って、治してあげよう」と。イエス様は、唯々苦しみ、病んでいる人への癒しのために「私が行く!」との一言を言って下さいます。
 しかも、この事件は二千年前にこういう事があったではなく、今も苦しむ者たちに向かって「私が行こう!」「私が行って癒してあげよう!」と語り続けていらっしゃるイエス様の心そのものです。
 イエス様の癒しとは、病んでいる人すら気付かないようなところ、望み得ないでいるような所に迄及ぶ働きですが、そこには一つだけ条件らしきものがあります。
 それは、キリストによる癒しの力の前に自らを差し出すことです。だから、イエス様は言われます。「あなたが信じる通りになるように」「今から私がなそうとする癒しの働きに向かって、あなたの方からも心を添えなさい!」と。
 それは、私たちの内に住まわれ、私たちと一つになろうとされるイエス様の心と表裏をなしてもいます。この一つになろうということで、今日の福音書にある「神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を、即ちこの世に生きている私たちを愛してくださった」、即ち愛の神様の姿を伝えています。この恵みを与えられている私たちから、その御言に向かって何が出来るでしょうか?