十字架上の七言:第六聖語

「成し遂げられた」
(ヨハネによる福音書19:30)


 「渇く」という言葉を吐き出されてからどのくらいの時間が経ったでしょうか。十字架にかけられてほぼ6時間が過ぎ、いよいよ息を引き取られる寸前にキリストは「成し遂げられた」と述べられました。これも何か悟りを求める禅問答のように私たちに与えられていますが、ギリシャ原語(テテレスタイ;tetelestai)では“完全だ。完了した”という意味の言葉として、日常会話の中でも良く使われました。例えば、召使が与えられた仕事を終えた後、主人にする報告の言葉だとか、金を借りた時に全額払い済みのことを意味するなどの言葉でありました。そして、神秘主義共同体の礼拝において、最後を締めくくる言葉としても用いられたそうです。キリストも、人間の概念をはるかに超える最も神秘的なみ業である十字架上で、最後の言葉として成し遂げられたと述べられました。ではキリストが成し遂げられたのは、そもそも何だったのでしょうか。体も魂も渇くほど想像を絶する苦しい状況にいながらも、伝えたかったことは何だったのでしょうか。
 言うまでもないのですが、キリストが成し遂げられたのは、人類の救いのために神様から与えられていたお働きのことです。十字架の死を通してお働きが終わるということです。そしてそこには、キリストのお働きと十字架の死を通して神様の愛が最終的に完成された、という意味が込められています。つまり、形として成し遂げられたのはお働きでありましたが、内容として成し遂げられたのは愛だったわけです。キリストが十字架上で最後の最後まで、私たちに伝えたかったことが、まさにその愛だったのです。それでは、皆さんは愛についてどういうイメージを持っているでしょうか。愛ほど深くて表し方も多様な概念は世の中に無いのではないかと思いますが、愛についての一つの理解を伝える童話がありますので、ご紹介したいと思います。
 塩でできている小さな人形がありました。塩人形は乾いた土地を長いこと、あちこち歩き回りました。そのある日、海辺にやってきました。海を見るのは初めてのことでしたので、それは何か分かりませんでした。絶えず動いて音を立てている、へんてこなものは何だろうと思いました。ところが、見ている間、段々魅力を感じるようになり、海について知りたくなりました。そのある日、魚に聞いてみました。“あの海について知りたい。”魚が言いました。“知りたいなら、先ず近づいていくこと、そして完全にそれになってみること、それが方法なんだ。”塩人形は勇気を出して海に向かって歩き出しました。ところが、一歩一歩海に入ると塩人形の姿は消え始めました。自分の一部が溶けることに違和感がありましたが、海について知りたい海と一つになりたい、という気持ちに身を任せました。やがて、海に入った塩人形は、跡形も無くすっかり溶けてしまいました。完全に海に溶け自分の姿が無くなった塩人形は、ようやく海とはどういうものか、ということが分かりました。塩人形は、海の深さと広さを身にしみて知ったのです。海の上で、それを見ていた鳥が塩人形に聞きました。“塩人形、君は誰なんだ。” “うん、私は海。”
 インドの昔話を童話にしたものですが、私はこの童話の中から、キリストが逮捕される前、弟子たちのため捧げた祈り「父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、全ての人を一つにいてください。彼らも私たちの内にいるようにしてください」(ヨハネ17:21)というお言葉、また弟子たちに託された「私があなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これが私の掟である」(ヨハネ15:12)という最後のお言葉のことを思い出します。これはヨハネ福音書を貫く精神を表す言葉でもありますが、これに基づきますと愛というのは一つになることです。海に戻った塩人形のように、存在の根源である神様との関係を回復して一つになること、そして神様を存在の中心に持っている人間同士が一つになること、それこそがキリストがご自分の生涯を通して模範をお示しになり、十字架の死を通して成し遂げられた、愛だと言えるのです。
 13世紀ペルシアの詩人でイスラム神学者ルーミー(Rumi、1207-1273)は、愛を通して一つになることについてこう歌いました。“愛に初めて目覚めた瞬間、私はあなたを探し始めた。それがどれほど愚かなことなのかも知らずに。愛する人たちは、何時どこであっても会えない。なぜなら、いつも互いの中にいるから。”これを通してルーミーは、神様であれ人であれ愛する存在はお互いの中で一つになっているから、わざわざ探し求める必要はないという愛の究極的な境地、まさにキリストが成し遂げられた愛について歌っています。また彼は「あなたは私を愛していますか」という詩の中で“私が私自身を愛するのであれば、それはあなたを愛することであり、私があなたを愛するのであれば、それは私自身を愛することなのです”と歌って、愛する存在がどれほど密接につながっているのか、もはやお互いは別々の存在ではない、ということを述べました。

黙想 - それではいかがでしょうか。皆さんは今、愛しているでしょうか。神様を、誰かを、そして自分自身を愛しているでしょうか。自分の中に愛はどのように活かされているのか、自分は愛を生きているのか、についてしばらく黙想しましょう。