十字架上の七言:第五聖語

「渇く」
(ヨハネによる福音書19:26)


 万葉集に“言葉の力で幸せをもたらされる国”という表現があるほど、古くから日本は、言葉に宿る不思議な力を重んじてきました。言霊という言葉がそれをよく表していますが、言霊は文字通り言葉に魂が宿っている、だから力があるということを意味します。それに準じますと、聖書こそ言霊の集約だと言えます。キリストが十字架上で語られた七つの言葉は代表的なものですが、とりわけこれから分かち合う「渇く」は群を抜いています。存在の深淵から息のように吐き出された魂の渇望が、その一言に染み込まれているように感じられます。人によっては、この言葉を語られたのは、人間としてのキリストなのか神様としてのキリストなのかを区別しようとすることもあります。しかしこれは真の人間で真の神様であるキリストによって語られたお言葉です。人間であり神様であるキリストの根本的な渇き、つまりみ業の成就への渇きが、体の本能的な渇きを通して表された、と考えられます。十字架の苦しみのあまり、詩22編16節にあるように「口は渇いて素焼きのかけらとなり、舌は上顎にはり付く」状態になってしまったキリストは、人類の救いのために「父がお与えになった杯」(ヨハネ18:11)、飲むべき死の杯を渇望されたわけです。
 そのように十字架上での神様の渇きは、まさに私たちのためのものだったのですが、その神様の聖なる渇きの対象である私たちにも、同じことが言えます。人間の根本的な渇きである真・善・美を始め、そこから発生する本能的な渇きである愛、性、命、創作、幸福、自由、または体、金、物などに関する渇きまでも含めて、全ての渇きの根底には、実は神様への渇きが本質として潜んでいるのです。古代ギリシャの哲学者プラトン(Plátōn、BC427-BC347)が“人間の魂は、この世ではなくあの世から来たものである。だから常に上に向かって燃え上がっている”と語りましたが、そういう魂を持っている限り、私たちの全ての渇きは、本質としては神様に向かって燃え上がる聖なる渇きであるわけです。そういった意味で、渇きというのは神様からのコーリング(calling、vocation)、お招きだとも言えますが、そこで問われるのは、ただ人間的な渇きだと思われるその炎のようなエネルギーを、どのように浄化して神様へと向かわせることが出来るのか、ということです。つまり、今自分が持っている渇きが神様からのお招きであることに気づき、それを省察、識別、黙想などを通して浄めながら、神様へ近づくための道に変える、ということが求められるわけです。では皆さんは今、どのような渇きを持っているのでしょうか。そしてそれを神様への道として活かしているのでしょうか。 
 ヨハネ福音書4章には、永遠に渇くことのない命の水であるキリストに出会って救われた、サマリアの女性の物語が記されています。彼女には今連れ添っている人以外にも、過去に夫が五人もいましたが、魂の渇きを満たすことは出来ませんでした。満たされるところか、離婚されることによる心の傷が増えるだけだったと思います。彼女の人生は、フランスの作家ギ・ド・モーパッサン(Guy de Maupassant、1850-1893)の小説『女の一生(Une vie)』のことを思い起こさせます。主人公ジャンヌ(Jeanne)は貴族の一人娘として生まれ、純粋な少女として育てられましたが、不幸にも質の悪い夫に裏切られることを初めとして、両親、子ども、孫へと次々相手を変えながら愛を求めざるを得ない人生を送ります。
 ジャンヌが家族の中に相手を変えながら愛の渇きを満たそうとしたように、サマリアの女性も夫との出会いと別れを繰り返しながら魂の渇きを満たそうとしたのです。彼女にとって五人もいた過去の夫は、真の夫であるキリストに出会うまで、頼りにしていた何かであったわけです。もしかして彼女が、夫に象徴される満たされない渇きを別の渇きに換えるのではなく、今現在の渇きの中に神様への道があることに気づくことが出来たら、もっと早くキリストに出会ったかもしれません。でも辛かった過去があったとしても、今現在真の夫であるキリストに出会って満たされ、さらにその恵みを人々に分け与えながら生きられたのですから、それこそ恵まれた人生だと言えます。

黙想 - 私たちこそ、まさに真の夫であるキリストに出会って生きているものなのですが、いかがでしょうか、今皆さんは満たされているでしょうか。もし、そうでないなら、一度立ち止まって、今自分は何を渇望しているのか、過去にはどういう渇きがあったのか、について省察してみることをお勧め致します。もし今も過去の夫と蜜愛を楽しんでいるのであれば、また新しい夫を求めているのであれば、自分にとってキリストはどういう存在なのかについて、改めて考えてみることが求められます。もちろん、別れた過去の夫と友達のような関係を維持することは可能ですが、今でも愛している状態だとしますと、それは今の夫であるキリストとの関係を根本から考え直す必要がある、ということになります。若しくは、教会には通っているけれども、まだまだ真の夫であるキリストに出会ってはいなかったかもしれません。自分の渇きとキリストの関係についてしばらく黙想しましょう。