十字架上の七言:第四聖語

「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」
(マタイによる福音書27:46)


 マタイ福音書によりますと、キリストは午前9時に十字架に掛けられて午後3時に息を取られましたが、その中、12時から3時まで世の中は暗闇に包まれました。天地創造以来続いていた太陽の光までも無くなったその時、キリストは大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。これは極限状態に追い込まれた苦痛と悲しみの表現でもあるので、人によっては、神様であるキリストもそんなに恨めしそうに悲しまれるのか、見捨てられ死ぬこともあるのか、と思うこともあります。17世紀のイングランド聖公会の司祭で詩人ジョン・ダン(John Donne、1572-1631)が“神様が死ぬということは奇跡の中の奇跡だ。神様が死ぬことなんて、それより奇妙で驚くことがあるだろうか”と歌ったように、キリストの十字架は人間の概念を超える出来事です。
 人間の考えとは違って、キリストは父なる神様によって見捨てられました。しかしそれは神様による一方的で強制的なことではありませんでした。フィリピの信徒への手紙2章7、8節に、キリストは「かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」とあるように、十字架の苦しみは救いのみ業を完成させるためのキリストの決断でもあったのです。つまり、天上の特権を全て放棄して人間になられたキリストが、地上の命までも放棄し自らを完全に無・空にする救いの過程であったわけです。教会ではそれをよくケノーシス(kenosis)という言葉で表現するのですが、まさにキリストは今の時刻のころ、ケノーシスを完全に具現化するため、十字架の道の終着点に立って暗闇の中で苦しんでおられたのです。
 キリストのこの出来事と同じとは言えませんが、それを追体験した人たちがいました。キリストが亡くなられた後、捕まえることを恐れて逃げたり部屋に閉じこもったりしていた弟子たちのことです。ヨハネ福音書は「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20:19)と、そのときの弟子たちの様子を伝えています。まるで映画のワンシーンのように、暗闇に包まれた家の中に隠れて、不安と恐れでおどおどしながら、葛藤と混沌にまみれたひと時を過ごしている彼らの様子が想像できます。恐らく彼らは「先生、先生、なぜ私たちをお見捨てになったのですか」という切ない気持ちで、自分たちを残して無念にも死んでしまったキリストを悔やんだことでしょう。キリストによって築かれた希望も約束も信仰も、何もかも全てを失ったと思い、自暴自棄の状態に転落してしまったと考えられます。
 ところが、キリストのケノーシスという自己放棄の過程が救いの成就のために不可欠だったように、弟子たちの閉じこもった家での暗闇と混沌の体験は、彼らの再創造のために必要な過程だったのです。と言いますのは、キリストを失った彼らは、これからはキリストに従う弟子に留まらず、自らキリストを生きる使徒へと進化して行かなくてはならなかったからです。一見、弟子たちが鍵を閉めて家に閉じこもっていたことは、相変わらず子どものように弱々しくて卑劣な行為に見えますが、実は彼らに託された宣教を全うするために必要な再生の過程だったのです。それは旧約の預言者ヨナが、ニネヴェでの宣教を全うするため入らなくてはならなかった大きな魚の腹の中、キリストが復活の前に入らなくてはならなかったお墓に準じるものだと言えます。
 恐らく彼らは、閉じこもった家での暗闇と混沌の中、全てが解体される、ことにキリストと神様に対して持っていた概念が崩れる、思いと心の死の体験をしたのではないかと思います。3年もの間従っていたキリストが自ら死の道へと進み、また父なる神様がそれを許したことを生々しく体験することによって、今まで勝手に築き上げた神認識、また福音と信仰についての理解が徹底的に崩れ落ちたのです。前カンタベリー大主教ローワン・ウィリアムズ(Rowan Douglas Williams、1950- )は“神様と私たちの間には想像をはるかに超える明らかな違いがある”と言い、神様はこういう存在である、だからこうあるべき、こうしてくださるはず、という仮定は全て偶像崇拝だと指摘しましたが、まさに弟子たちが思いの中で作り上げた偶像は全て解体され、荒地のような空の状態になったわけです。ところが、まさにその場、その暗闇に包まれた家の真ん中に、復活されたキリストが3度も現れて、彼らを再創造へと導いてくださったのです。キリストのケノーシスほどではないけれども、どん底での暗闇と混沌の中で、何もかも無くなり苦しんでいる時に、お出でになられた復活のキリストによって彼らは生まれ変わり、再び使徒としての宣教の道へと召されたのです。

黙想 - 今日の弟子である私たちにも同じことが言えます。私たちも時折、自暴自棄の状態に転落し、暗闇と混沌の中で苦しんだり、それが怖くて逃げたり隠れたりすることがあります。何もかも残っていない、築いてきた財産や関係などが崩れ落ち、培われた信念や価値観までもが全て解体された、と感じることもあるわけです。ところが、弟子たちから学べるように、それは再創造の過程でもありましょう。それを活かしてキリストは、私たちを更なる道へと導いてくださるのです。過去「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びたくなったとき、自分は何を放棄したのか、そして何を新たに得たのか、について振り返りながらしばらく黙想しましょう。