「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」
(ヨハネによる福音書19:26)
日本には、母に因んだこういう歌があります。私より皆さんの方が良くご存じだと思いますが、短歌の巨匠だと言われる石川啄木は、歌集『一握の砂』の中で“たはむれに母を背負ひて、そのあまり軽きに、泣きて三歩あゆまず”と歌いました。軽い気持ちで母をおぶってみたけれども、あまりにも軽かったので驚き、その悲しみのあまりに、それ以上歩くことができなかったという内容です。年老いた母に対する子の思いが歌われた短歌です。状況は違いますが、キリストが十字架上で迫ってくる死の影を感じながら母マリアに対面したときのお気持ちは、恐らくそれ以上のものではなかったのか、とただただ推測いたします。真の人間で真の神様であるキリストの心を計り知ることは出来ませんが、母マリアと弟子に残した言葉は、今日の弟子である私たちに大きな意味を与えます。ヨハネ福音書19章26、27節によりますと、キリストは母とそばにいた愛する弟子を見て、母に「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われ、それから弟子に「見なさい。あなたの母です」と言われました。すると、その時から弟子はマリアを自分の家に迎え入れた、ということが記されています。私はキリストが母と弟子に残したこの二つの言葉は、単純でありながらも深い意味が込められている一種の宣言ではなかったのか、それをマリア宣言と名づけても良いのではないか、と思うのです。キリストの誕生の時に「マリアの賛歌」があったとしますと、キリストの死の時にはマリア宣言があったと言えましょう。ご存じのように、マリアの賛歌は生まれてくるキリストがどういう存在であり、キリストによってこの世にどういうことがもたらされるのか、ということがマリアによって歌われました。それに対比して、マリア宣言はキリストがいなくなった後、残される弟子たち、今日のキリスト者はどういう存在として生きるようになるのか、ということがキリストによって述べられたものだ、と考えられます。
少し説明をいたしますが、先ずここで取り上げられた弟子というのは、特定の一人の弟子というよりは、弟子そのもの、さらにはキリスト者である私たちのことを指している、と読み取ったほうがよいのではないかと思います。それに準じますと「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と「見なさい。あなたの母です」という言葉は、これからマリアはキリストだけの母に留まらず全ての人の母になる、ということを示します。死を目前にしていたキリストは、この世に残る弟子たち、今日の私たちのために母を与えてくださった、つまり私たちがマリアを迎え入れて共に生きるように導いてくださった、ということになるのです。まさにその弟子は、キリストから「見なさい。あなたの母です」と言われてから直ぐに、マリアを自分の家に迎え入れたわけですが、ここで言う家というのは、物理的な空間としての住まいだけではなく、人間の存在そのものとして理解する必要があります。つまり、マリアを家に受け入れたということは、マリアを存在の中心へと受け入れてマリアと共に生きる、まさにマリアそのものになってマリアとして生きる、ということになるのです。
こういう理解に準じますと、キリストが死なれた後から、残された弟子たちと今日の私たちは、マリアとして生きることがキリストによって宣言された、ということになるわけです。ところで、そもそも私たちがマリアとして生きるとは、どういうことでしょうか。福音書の教えによりますと、それは受胎告知を受けて「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1:38)と告白したマリアのように、謙遜で柔和な信仰の姿勢を取ることであり、マリアの賛歌を歌ったマリアのように、平等と変革をもたらす神様の計り知れないみ業を堂々と宣言することであり、極めつけとしては厳しい状況の中にいながらもキリストを産んだマリアのように、自分の魂の子宮を通して自らキリストを生む、ようになることだと思います。中世の偉大なる霊性家マイスター・エックハルト(Master Eckehart、1260-1327)が“もしも、キリストのお誕生が自分の中からなされないならば、これは何のためになるのだろうか。このお誕生が、自分の中で成し遂げられなくてはならないということ、それに全てが懸かっている”と語ったように、私たちがマリアとしてキリストを生むこと、そのためにマリアになることこそ、信仰の核心だといっても過言ではありません。
今日において、私たちがキリストを身ごもることが出来れば、それより大きな恵みはないと思います。するとマリアになった私たちは、再びマリアの賛歌を歌うことになります。マリアの賛歌を歌うことを通して、生まれてくるキリストによってもたらされるみ恵みとは何かを、世の中に新たに述べ伝えるようになるでしょう。
黙想 - 皆さん、キリスト者として私たちは、キリストとして生きることが使命として、またそのために、先ずマリアとして生きることが宿命として、定まっているものなのです。キリストを生むための自分の魂の子宮は、今どのような状態なのかについて、しばらく黙想しましょう。