十字架上の七言:第二聖語

「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」
(ルカによる福音書23:43)

  古代ギリシャの哲学者ソクラテス(Socrates、BC469-BC399)が座右の銘にしていた“汝自身を知れ”という有名な格言があります。元々はデルフォイ神殿の入口に刻まれていた言葉として、人間に向けられた警告のようなものです。具体的には、人間は有限な存在であり、そういう人間が身のほどを知らず、神になったかのようにうぬぼれると裁かれる、というメッセージです。このように自己存在についての正しい認識を持つことは、全ての学問や宗教の目的であります。キリスト教の多くの営みも、人間としての自己認識、さらにそこから導かれる神認識の深化のために行われている、と言えます。キリスト教は少し特別な人間観を持っています。聖書の教えによりますと、私たち人間は偉大でありながらも弱い者です。神様のイメージ、つまり聖性とも言える神様の無限なる可能性を持っているため偉大な存在ですが、一方で過ちに陥りやすいし、一人では生きられない限界を持っている弱い存在です。それゆえ、人々は互いに協力し、また神様の助けを求め、力をいただきながら、自分の可能性を実現して生きているわけです。
 先の第一講話の中、ペトロとユダのことを取り上げましたが、ご存じのようにペテロはキリストを三度も否定し裏切った後、泣きながら自分の過ちを後悔しました。恐らく彼は、自分の中に潜んでいた弱さと限界を知り、痛感するようになったことでしょう。そういう過程を通して、彼は自分が持っている良し悪しをありのまま認めるようになり、そこからやっと本当の意味で一番弟子になり始めたのではないか、と考えられます。その反面、ユダは人間としての自分の弱さと限界を認めることはせず、自分の過ちを自分が判断するというもう一つの過ちに陥ってしまい、その挙句自殺してしまいました。過ちに過ちを重ね、更なる悪の道へと走ってしまったわけです。このようにペトロとユダの間には、人間としての自己認識、また神認識についての差があり、それが天と地ほどに違う結果を生み出したのです。
 ところが、私はキリストの左右の十字架にかけられた二人の犯罪人からも、ペトロとユダに似たようなことを見出します。彼らは同じく罪を犯したものとして、キリストを中心に右と左の十字架にかけられていましたが、キリストに対する二人の態度は真反対でした。一人はキリストに「お前がメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39)と嘲って罵りましたが、もう一人はむしろその人に「お前は神を恐れないのか」(40)、我々がそれを言える立場なのか、身のほどを知れ、というようなことを語り、さらにはキリストに「イエスよ、あなたの御国にお出でになるときには、私を思い出してください」(42)と言って救いまでも求めました。同じ立場にいながらも、二人は愚かさと賢さ、高慢と謙虚、不信と信仰、絶望と希望などを表す者として描かれています。伝説によりますと、キリストに救いを求めた一人の犯罪人は、後に教会によって信仰が認められて聖人にもなったそうです。
 さて、皆さんはこの二人のことをどのように思うのでしょうか。私は、彼らは別々の人物であるというより、人間として自分の中にある二面性を象徴的に示しているのではないかと思います。皆さん、ローマ神話に登場するヤーヌス(Janus)のことをご存じでしょうか。ヤーヌスは出入り口と扉の守護神として、前と後ろに反対向きの二つの顔を持っています。相反する二つの顔を持っているヤーヌスは、現代においては人間が持っている二面性や二重人格のことを意味する言葉として広く用います。キリストの左右にいた二人の犯罪人のことは、ヤーヌスの相反する二つの顔に対比して理解することが出来ます。二人は、まるでヤーヌスのように、愚かさと賢さ、高慢と謙虚、不信と信仰、絶望と希望、善と悪など、相反する二面性を同時に持っている人間そのもののことを表している、ということです。他人のことはともかく、自分のことを考えるだけでもそれを否定できなくなります。
 このように人間は誰もがヤーヌスのような二面性を持っていますが、自分の裏切り行為を悔い改めたペトロと十字架上のキリストによって救われた一人の犯罪人から学べるように、今日の私たちには、人間としての二面性や限界などをありのままの自分を認め、愚かさや過ちを悔い改め、謙虚に神様に寄りかかることが、救いのために求められます。つまり、自分の悪い部分を自分が判断し責めるのではなく、神様からいただいた聖性とも言える自分の中にある良い部分を、さらに養うように努めることが大事なことになるわけです。神様がどのようなお気持ちで人間をお造りになったのかを見ますと、それが明らかになります。創世記によりますと、お造りになった天地万物を見て満足された神様は、人間には特別な祝福の言葉とともに、創造のみ業を受け継ぐ使命を与えられました。蛇に誘惑されたアダムとイブによる原罪のことがよく知られていますが、それ以前に、人間は神様によって祝福された尊いものである、ということを認識する必要があります。つまり、原罪/オリジナル・シン(original sin)より先に、原福/オリジナル・ブレッシング(original blessing)があったわけです。そのように私たち一人ひとりは、祝福され、愛されるためにこの世に生まれてきた存在なのです。

黙想 - それゆえ大事なことは、先ず自分は二面性を持っている存在であることを認め、そういう告白の上で、人々のことを悪い面だけを見て容易く判断しないことであり、さらには自分の良さをさらに養い、聖性を少しずつでも具現化していくことだと思います。すると私たちも、救われた一人の犯罪人のように「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という恵みに預かることになるでしょう。