十字架上の七言:第一聖語

「父よ、彼らをお赦しください。
自分が何をしているのか知らないのです」
(ルカによる福音書23:34)


 「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」これはキリストが、ご自身の死に直接的・間接的に関わった人々の過ちや無知に対して述べられた赦しの願いです。それでは、キリストが言われた「彼ら」とは誰のことでしょうか。キリストを侮辱したり殴ったりしながら十字架に釘を打った兵士たち、キリストを十字架の死に追いやった祭司長、律法学者やファリサイ派、またエルサレムに入城するキリストをホサナと歌いながら歓迎したが、すぐさま十字架にかけろと叫んだ群集のことを指します。さらにはキリストを残して逃げてしまった弟子たちも、「彼ら」の枠の中に入ると考えられます。とりわけ、昨日聖木曜日の最後の晩餐の後、キリストを僅かな金で売ってしまったユダ、またキリストのことを知らないと三度も否定したペトロのことをあげることが出来ます。彼らは、自分たちが何をしているのか知らずに、若しくは計画を立てるほど知っていたとしても、実はそれの本質については何も知らないまま過ちに陥ってしまったのです。まるで使徒聖パウロが、ローマの信徒への手紙(7:19、21)を通して「私は自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている … 善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっている」と告白したように、人間としてのどうしようもない限界が、最も劇的に明らかにされたわけです。望んでいた善ではなく、望んでもいない悪の道に走ってしまう可能性は、どこにでも、誰にでもあると言えます。
 人々が一つの理念のもとに集まっているところには、それがどこであろうが危険性が潜んでいます。国家を始め教会のような共同体に至るまで、人間の集団には誤った道へと進む可能性があります。普段は明らかになりませんが、理念が人より優先してしまい、集団が個人を抑圧するようになりますと、その危険性は顔を出し始めます。そういう危険性のことを全体主義やファシズム(fascism)という言葉で表現することもあります。ドイツのナチズムのように、ことに政治的な一つの理念のもとで一人の独裁者への服従が求められたり、それに反対する者を弾圧したりするのがファシズムの特徴です。ところで、私は政治や理念に深く関わっていない、いわゆる平凡な人の中にもファシズムの可能性が潜んでいると思います。
 ドイツ出身の政治哲学者、ハンナ・アーレント(Hannah Arendt、1906-1975)は「悪の陳腐さ・悪の平凡性」という言葉をもって、ナチズムによる残虐な出来事とは、ごく普通の人の中にある悪によって支えられていた、と指摘しました。つまり、悪というのは特別に悪い人ではなく、凡人によって起こってしまうという話です。それに準じますと、私たちも自分の中に悪が平凡な顔を持って潜んでいるのではないか、と常に省みなくてはなりません。一人のキリスト者として自分も、いや自分こそが、何も知らずにキリストを十字架の死に追いやった彼ら、ことにキリストを否定して裏切ったペトロであり、安値で売ってしまったユダではないのか、ということを省察することが求められるわけです。
 皆さん、キリストを裏切ったのはペトロだけであり、売ってしまったのはユダだけでしょうか。大斎節を迎え黙想している私に、キリストを裏切り安値で売ってしまったユダは、まさにお前、ユー(you)だ、お前こそが「ユ(you)ダ」だ、と突然聞こえてきました。み言葉を黙想すればするほど、自分がユダであることを告白せざるを得ません。一人の司祭として、キリストの御体である浸されたパン切れを頂き、それを信徒と分け合うことで感激しながらも、日常に戻りますとユダのように御恵みを僅かな世の価値に換えてしまう、私こそがユダだったのです。それでは、皆さんはいかがでしょうか。最後の晩餐に集まった12弟子の中にユダもいたように、もしかしたら私たちの中の一人はユダかもしれません。特定の誰かというよりは、私たち皆にユダになる可能性が潜んでいる、という話です。
 一方で、私たちは最後の晩餐の場において、キリストがご自身を裏切るペトロにも、ご自身を売り渡したユダにも、ご自身の肉と血を分け与えられ、また頭を下げて足をも洗ってあげた、ということを思い出す必要があります。これは潜んでいる悪の平凡性に左右され、望んでもいない悪の道に走ってしまう私たちに大きな恵みを与えます。それではペトロやユダにも開かれていた、キリストのその聖なる行いがもたらした恵みとは何でしょうか。私は、全てを知っておられたキリストの多大なる赦しと慈しみが、事前に反映されていたことではないのか、と思います。人々による教理的な組織として教会はユダのことを裁くことがあっても、キリストご自身は裁くことをなされなかったのではないか、と私は思うのです。むしろ「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と、今でも私たちのために祈っていらっしゃるのではないか、と信じたいわけです。それがキリストの十字架がもたらす赦し、御体と御血による恵みであり、私たちは今もそれによって日々を生かされているのです。

黙想 - それではいかがでしょうか。今もキリストは私たちのため、つまり自分で思う自分がどういう存在であろうが、そういう私たちのためキリストは赦しの祈りを捧げておられる、ということを皆さんは信じて受け入れているのでしょうか。そして、キリストによって赦された自分のことを、どのくらい赦しているのでしょうか。キリストが赦しておられるのに、いまだに自分は自分のことを赦していない、もう一つの過ちに陥っているのではないでしょうか。それらのことを省みながらしばらく黙想しましょう。