十字架上の七言:序言

 私たちは、新型コロナウイルスの大流行によって全世界がパニック状態になっている最中、大斎節を過ごし、今このように受苦日を迎えています。ニュースに接する度、現実にこういうことが起こりえるのかと疑うほど、多くの方々が亡くなり、苦しんでいます。教会の信徒からは、礼拝が出来ないから寂しい、こんなに長くみ言葉と聖餐の恵みに預からなくなったのは初めてだ、とても苦しいので何とかできないのか、という連絡があります。このように強いられている状況によって、ある意味でキリストの苦難が少しでも追体験できた大斎節だったかもしれない、とも思います。司祭である小職にとっても、これほど苦しい大斎節は、今までありませんでした。
 今の世界を先導する知識者の一人、ユヴァル・ハラリ(Yuval Noah Harari、1976-)は、イギリス経済紙フィナンシャル・タイムズ(FINANCIAL TIMES; 2020.3.20付)に「新型コロナウイルス後の世界」と題した記事を寄稿しました。記事には政治、経済、文化などの総合的な側面において、人類の未来のために整えるべき世界のあり様は何か、そのためにどういう選択が望まれるのかが提案されています。第1の選択は、全体主義的監視か、それとも国民の権利拡大か、というもので、第2の選択は、ナショナリズムに基づく孤立か、それともグローバルな団結か、というものです。
 この場において具体的なことに触れることは控えさせていただきますが、記事のサブタイトル「この嵐もやがて去る。だが、今行なう選択が、長年に及ぶ変化を私たちの生活にもたらしうる」という文章だけでも、一緒に考える必要があると思います。つまり、新型コロナウイルスによる世界的な試練の中、大斎節を過ごしているキリスト者が選択すべきことは何か、またこれから迎える復活と、それによってもたらされる自分の変化のために、今何をするべきなのかについて考える、ということです。では皆さん、大斎節の頂点とも言える聖なる三日間を過ごしている今、私たちに何より求められていることとは、何だと思われますでしょうか。
 それについて示唆している詩がありますので、ご紹介いたします。アメリカのキティ・オメアラ(Ktty O'Meara)という人が、新型コロナウイルスの大流行によって引き起こされたロックダウンの状況の中に書いた「そして人々は、家に留まった(And The People Stayed Home)」という散文詩です。
 “そして人々は、家に留まった。本を読んだり、音楽を聴いたり、十分に休んだり、運動をしたり、絵を描たり、ゲームをしたり、そうして新たな「あり方」を学びながら、一旦、立ち止まった。そして、より深く耳を傾けた。ある人は黙想をして、ある人は祈りを捧げて、ある人は踊って、ある人は自分自身の暗闇に気づいて。そして人々は、今までと違った考え方をし始めた。そうして人々が癒された。無知、危機、愚かさ、無慈悲な暮らしを改めた結果、地球も癒され始めた。そして危険が過ぎ去ると、人々はまた一緒に集まった。失ったものを嘆き、新しい選択をし、新しい暮らしを夢に描き、新しい生き方を創造した。地球を完全に癒した。それは、癒された人たちだからできたことだ。”
 いかがでしょうか。今の私たちに何より求められることについて、何か思いが得られたでしょうか。私の場合は省察、つまり省みるという言葉を思い出しました。過去と現在を省みて未来を夢見るため、自己存在と生き方を省察するということが、今の私たちに求められることとして浮かびましたが、皆さんはいかがだったでしょうか。新型コロナウイルスは発生からほぼ3ヶ月が経っていますけれども、いまだに終息の目処が付かず、復活節の殆ども苦しみと悲しみの中で過ごすようになるかもしれません。でも、迎えられる今日という瞬間をどのように過ごすかによって、コロナウイルス以後の私たちの生き方は変わると思います。今の受苦日こそ、自分の過去と現在を省みながら、これからの復活を準備するための省察に、最も相応しいひと時だと言えます。これから行います受苦日の黙想を通して、自分のことをキリストに照らしながら省察する私たちの皆に、18世紀英国の詩人ウィリアム・ブレイク(William Blake、1757-1827)が歌った、次のような祝福がありますように祈ります。“砂粒の中に宇宙を見て、野の花の中に天国を見る。手のひらで無限を握って、短い時間で永遠を計る。それが、人間という有限者が持っている祝福である。”