復活日の黙想


 今年(聖餐式聖書日課A年)の復活日には、二つの福音書箇所(ヨハネによる福音書20:1—10・マタイによる福音書28:1—10)が用意されています。その内のマタイによる福音書の後半には、「すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる』」という出来事が記されています。
 「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び」とありますように、先ほどまで訳も分からぬ出来事に呆然としていたのとは打って変わり、婦人たちのその喜びは、筆舌に尽くしがたいものであったに違いありません。声も出せず、しかし、甦られたイエス様の足を抱き、ひれ伏したという姿からも想像できます。
 一方、イエス様の婦人たちへの第一声はと言えば、「おはよう」です。ちなみに、文語の聖書では「平安あれ」と訳されていましたが、新共同訳聖書では「おはよう」と訳されており、何とも悠長な印象さえ受けます。あるいは、日常と何ら変わりのない様子さえも感じさせられます。
 しかし、この「おはよう」は、原文では「Χαιρετε」という言葉が使われており、元々の意味は「喜びなさい」という命令形にもなっています。
 甦られたイエス様の第一声が「おはよう」とは、上述のように悠長であり、余りにも日常的であり、拍子抜けする感じさえします。けれども、この一見日常的な言葉の奥深くあるイエス様の心には「私は、確かに甦ったのだから喜びなさい」「私があなたがたに与える平安に与りなさい」という、励ましと祝福が込められていたことでしょう。
 余談ですが、英語が不得手なこともあり、幼き日「Good Morning」を、そのまま「よい朝」と訳して揶揄われたことがあります。けれども、ご復活のイエス様の第一声は、「甦られたイエス様によって、神様の命の光が注ぎ込まれた朝」と、今は勝手に意味づけたりもしています。
 それから、イエス様は「わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と命ぜられます。同じことをイエス様は、最後の晩餐の席上でも、ご自身、先にガリラヤへ行かれることを伝えていらっしゃいます。
 ガリラヤは、イエス様の救い主としての働きの出発点でした。使徒たちにとっては、イエス様からの召し出しに与った所でした。いろいろな考えや解釈があるでしょうが、「原点」「出発点」ということに深い関係を感じさせられます。信仰生活も霊的生活も、常にこの原点、神様からの呼びかけと招きをいただき、第一歩を踏み出した信仰の旅路への出発、常に私たちはそこに立ち返り、心を向けたいものです。
 そして、このイエス様に従う歩みが、聖霊によって祝福されるものとなりますよう祈ります。
 ハレルヤ 主イエスはまことに甦られた!