復活節第五主日の黙想


 今朝の福音書はイエス様が「最後の晩餐」の中、使徒たちになさった説教、「訣別説教」と言われている一部ですが、全体に目を通していく時見えてくることがあります。「訣別説教」と言われるだけにお別れの言葉という、重苦しく悲しいイメージが持たれがちですが、その実中身は「喜びへの招き」になっています。
 喜びとは聖書を通してもイエス様の様々な教えや行いに於いても、重要で欠かせないテーマであり、私たちの信仰生活、霊的生活に於いてもひじょうに重要なものです。もし仮に「喜び」の伴わない信仰生活、霊的生活なるものがあるとするならそれは最早、苦痛以外の何物でもなくなってしまいかねません。但し、気を付けておかなければならないのは、神様抜き、イエス様抜きの、単に己のみを満足させるような喜びのことを聖書は言っていません。
 イエス様の生き様や教えを辿る時、そこで言われる喜びとは、神様の似姿に造られている人間は、その造り主であられる神様の限り無い大きな愛と癒し、憐れみ、赦しに大きく包み込まれていることから与えられる喜びです。
 確かに、私たちは悲しい時には喜べませんし、苦しい時や悩み、不安に悶々としている時には喜べません。ところが、イエス様に倣っていこうという歩みに於いては不思議なことに、悲しみの中に在ってさえも神様の内に生かされているという喜びを見出すことが起こり得ます。悲しみが悲しみのままで終わらないという不思議なことが起こり得ます。 
 私たちは生きている限り喜ばしい出来事、悲しい出来事に否応無く直面させられます。そこから恨みの材料を引き出すことに時間と労力を費やすことも出来れば、反対に、少しでも喜びに繋げていかれる何かを引き出すほうへ心を向けることも出来ます。キリスト教二千年の歴史の中、数多くの聖人、霊的達人と言われる人々が神様によって生み出されてきましたが、そのような人たちの歩みや言葉の中に大きなヒントが隠されています。珍しい表現ではありませんが、「小さなことへの感」「自分が誰かの喜びの切っ掛けになることが出来たかへの吟味」です。
 イエス様を筆頭に、聖人たちを指して「雲の下を歩いている時にも、太陽に付いて語り続けることの出来る人たち」という言葉があります。しかし、反論も生み出せます。「私はイエス様でも無ければ、聖人でも無い」と。その結果、苦しみの大海原へ放り出されたかの如くに感じ、「最早、希望など無い」「救いなんて理想に過ぎない」「信仰なんて所詮は気休めだ」「神の愛なんて単なる奇麗事だ」とう言葉と思い込みを繰り返し、サタンに隙入らせる絶好のチャンスを提供し始めます。しかし、イエス様は宣言されました。「あなたがたは、この世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは、既に世に勝っている」と。
 私たちの信仰の先達たちが、希望と喜びに触れた時の多くは、身も心も重苦しくやる瀬ない、そういう時であり、「神様、あなたこそが唯一の望みです。私の唯一の命の源で在られます。神様、私をあなたによって立たせて下さい」と叫ばざるを得ない心境の中でのことでした。安易で、一時的なまやかしに最早すがることが出来ないことに気付き出した時、即ち、真の支えや喜びをこの世のシステムを遙かに超えたところに見出した時、「わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す!」というイエス様の御言に支えられ、力付けられました。その御言を投げ掛けていただいている私たち自身を見出し、大切にしたいものです。