聖木曜日(洗足)の黙想


 子どもの頃「食事中に何々してはいけません」「ちゃんと食べてからにしなさい」と、よく親に叱られたものです。ところが、福音書に見られるイエス様の姿は、これに反するものと言えましょう。なんと、食事の真っ最中に、席から急に立ちあがられ、弟子たちの足を洗い始められます。
 もし、弟子たちの酷く汚れた足がイエス様の目に入ったとしても、食事を終えてからでもできたはずです。あるいは、自分たちで洗わせることもできたでしょう。ところが、イエス様はそれを自らなさいました。同時に、突然足を洗われた弟子たちの驚きは、食事を忘れさせる程のものであったことでしょう。
 そして、弟子たちの足を洗い終えたイエス様は、弟子たる者に向かって言われます。
 「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と。
その後、ユダの裏切りを予告されたイエス様は、さらに弟子の筆頭格と言えるペトロの離反も予告されます。つまり、イエス様の言動は、「弟子たちへの洗足」「ユダの裏切り予告」「新しい掟の授与」「ペトロの離反」と進んでいきます。
 これを機に永久にイエス様に背を向け、イエス様から離れて行くユダ、永久にでは在りませんが、三度イエス様との関りを否定し、背を向けるペトロへのイエス様の言葉が福音書に記録されています。
 ちなみに、小説ですが、有名な「クオバディス」に描かれているペトロは、迫害を逃れるべく、ローマを背に逃避していきます。しかし、最終的にはその逃げ道の途上で復活のイエス様に出会い、殉教の地となるローマへ踵を向け直しました。まさに、180度の大転換と言えましょう。その大転換に匹敵すると言えるような出来事が、今目の前で弟子たちの身の上に起こっています。何と、弟子たちに洗わせるのではなく、イエス様自らが身を低くされて、弟子たちの汚れに汚れきった足を洗われるという出来事です。しかし、そのイエス様も、以前に足をジャブジャブではなかったにせよ、似たことを経験されました。ルカによる福音書第7章に記されています「罪深い女を赦す」という有名な事件がそれです。
 あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエス様はその招きに応えられ、食事の席に着かれます。すると、その町に住む一人の罪深い女が、その食事の席に入って来て、後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗るという話です。周囲にはざわめきが起こったであろうことは、想像に難しくはありません。そして、イエスを招待した人はこれを見て、半ばバカにするかのように思います。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と。
 ところが肝心のイエス様は、一寸の乱れの見せられず、落ち着いて言われます。「シモン、あなたに言いたいことがある」「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか?」と。答えは、子どもでも分かりますが、「帳消しにしてもらった額の多い方です」と招待者シモンは答えます。すると、イエスは言われます。「そのとおりだ」と。さらに、イエス様は、女性の方を振り向いてシモンにおっしゃいます。
「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。
そして、イエス様はその女性に、「あなたの罪は赦された」「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」との憐れみと許しの言葉を授けられます。ユダやペトロのようにイエス様に背を向けた弟子たちと、イエス様の傍らに我が身を置き続けた女性との、極めて対照的な姿が見えるようです。それは、弟子たちの足元に我が身を置かれたイエス様の姿、「イエス様の洗足」にも繋がるかのようです。
 さらにイエス様は、ユダの裏切りの予告と、弟子の筆頭格とされ、イエス様自ら教会の礎とされ、天国の鍵を授けられたペトロの離反予告、そのど真ん中にと言えるような形で、新しい掟」を弟子たちに授けられます。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」と。
 後に聖霊を受け、この時の衝撃的な出来事を思い浮かべた弟子たちは、殊にペトロは、心底確信したことでしょう。自らの弱さ故とは言え、極み迄愛し続けて下さるイエス様を裏切った。しかし、その自らの弱さの傍らに、真ん中に、我が身を低くしてまで寄り添って下さる方がいらっしゃる!ご自分の手を汚してまでも、挙句の果てには血を流し、命を捧げてまでも、愚痴や恨みや呪いの言葉一つ吐くでもなく、自分の心に、命に添い続けて下さる方がおられる!もう金輪際、二度とこの方から離れまい、この方を手放すまい!とペトロは祈り、誓ったことでしょう。
 ちなみに、「愛」「とか「愛し合う」ことの大切さは、イエス様でなくても教えています。しかし、イエス様は、敢えて「新しい」という言葉を添えて、僕として仕える愛を教え、伝えていらっしゃいます。世の中には「自己愛」「家族愛」「博愛」「人類愛」等々、「愛」という言葉を伴うものは数限りなくありますが、イエス様は、互いに仕え合う愛を示し、伝えられました。イエス様が注がれる愛は、上から目線的なものではあり得ないし、自らの欲求を満たす為のものでもありません。
 土や埃で汚れた弟子たちの足を洗われた時、我が身を低くされ、跪くようにして洗われた、イエス様の姿を想像する時、そこにはイエス様の心をも見えてまいります。
 そして、イエス様はこの仕える愛の教えを、新しい掟を授けられたのは「最後の晩餐」の席上でした。つまり、闇が支配しているかのような、夜の暗がりの時間帯になされている晩餐の中に光を注がれたのです。愛と奉仕が、光を生み出し、導き出すことを示されたのです。加えて、イエス様は、裏切ることをご存知でありながら、ユダを除外されませんでした。そのイエス様の計り知れない、深い愛に、感謝を以て与りたいものです。