降臨節第一主日の黙想


 「降臨節」に入りましたので、聖書もお誕生絡みのものが読まれそうですが、一足飛びにマルコ福音書の終わりの方へいっています。しかし、そこに盛り込まれていることは福音書の初めの方とも繋がっているはずですので、両方を思い浮かべながらイエス様のみ言葉と心に触れたいと思います。
 マルコが手掛けた福音書はクリスマス物語ではなく、「時は満ち、神の国は近付いた。悔い改めて福音を信じなさい」というイエス様のガリラヤに端を発する公生涯と宣言から書き始められています。そこにあるイエス様の言葉が「時は満ち、神の国は近付いた。悔い改めて福音を信じなさい」ですが、この宣言は公生涯の初めだけではなく、折に触れてなされていたようです。
 ここに「時は満ちた」という言葉があります。多くの預言者たちが現れては神様のみ言葉とみ心を告げ、人々を叱咤激励しつつも、預言者はその約束の成就を目にすることなく世を去りました。神様の救いを待ち望む中、人々が苦しみ、悩み、悲しみ続けてきた長い歴史を背景にしている言葉、それが「時は満ちた」です。人々は長い間預言者たちの言葉を繰り返し思い起こし、ひたすら神様の救いをもたらして下さる幼子の誕生を待ち望み続けます。神様は必ずや約束通りに幼子を授けて下さるという神様への信頼と希望を携えて待ち望み続けていた中、遂にイエス様がお生まれになります。神様の救いを人びとが見て、聴いて、触れられる時が遂にやってきました。これが、イエス様の第一宣言です。
 それに続く第二の宣言が「神の国は近付いた」です。ギリシャ語では、今近付きつつある「神様の働き」と、ご自身のお誕生によってその働きが此処に在るというニュアンスです。神様は私たちから遙か遠く掛け離れた所でではなく、私たちの生活、命の中で働き続けて下さる、そのことが今まさにイエス様によって露にされました。その神様の働きの内に在って「悔い改める」、即ち「重荷を背負われ、傷つき、それでも尚且つ背負い続けて下さり、決してそれに潰されない方がいらっしゃる、その方へとしっかりと心を向け直しなさい」と、イエス様は促されます。
 一方で十字架に近付くにつれ、一見無力で敗北という言葉しか浮かんでこないようなイエス様の姿に出会います。そうとしか見て取れないようなイエス様のご生涯の中に「決してそうではない、寧ろそれこそが神様のなさり方であり、敗北どころか勝利なのだ」という宣言が、今まさにイエス様の口から発せられました。
 この宣言は荒れ野での誘惑を打ち破られた直後、イエス様の口から発せられました。私たちはご降誕への最初の主日に、この勝利の宣言をいただきました。