聖金曜日(受苦日)の黙想


 イエス様は、十字架の上で「七聖語」と言われる、七つのみ言葉を言われました。言われはしましたが、これらの言葉は単なる音声や単語の羅列ではなく、イエス様の祈りとして聴くことができるように思えます。
 今ここに七つのすべてを取り上げることはできませんが、その中の一つに、次の言葉があります。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。
 この十字架の上でのイエス様のみ言葉を巡って、次の信仰告白ともいえる言葉が残されました。
 「イエス様を十字架に磔にした人たち、嘲笑い、罵倒した人たち、興味本位や面白半分のように見ていた人たちは、流れや勢いでということでは、本当に大事なこと、気付かなければならないことに気付いていない、知らないと言えよう。むしろ、人々が仕出かしたことの本当の恐ろしさ最もよく知られ、それゆえにご自身の心に計り知れない痛みを覚え、しかもそれをご自分のものとして背負われたのはイエスお一人でいらっしゃる。そして、あたかもご自身の罪であるかのように背負われ、十字架を担われたイエス様は、深く痛みを引き受けられながらも愛を以て、彼らをお赦しくださいと、祈ってくださっている。私たちが気付いても、感じてもいない罪が、あのゴルゴだの丘でイエス様の心を重く押さえつけていたのである」、このような意味の言葉を残されたのは、日本基督教会の指導者でいらした植村正久牧師の言葉です。
 ご自身何一つ罪を犯していらっしゃらないにもかかわらず、誹謗中傷する人びと、罵倒する人びと、挙句の果てには十字架へ追い込んだ人びとを糾弾するでもなく、呪うでもなく、ご自身の心深くに引き受けてくださるイエス様をして、「愛の神の姿」以外の何を思うことができるでしょうか。
 しかも、イエス様は神様への執り成しまでもしてくださいます。間違いなく神様は、その祈りを聞き届けてくださいました。イエス様の十字架の上でのみ言葉は、「十字架の上での私たちのため捧げてくださった祈り」と言えましょう。
 もう一つ、記しておきたいことがあります。それは、イエス様の発せられた七聖語ではありません。それどころか、イエス様を侮辱し、嘲笑い、十字架に磔にすることを嬉々としていた祭司長たち、律法学者たち、長老たちの口から出た「他人は救ったのに、自分は救えない」という言葉です。
 ローマ総督ピラト、兵士、群集たちがいろいろな言葉を口にしていますが、この「他人は救ったが、自分は救えない」というイエス様への侮辱の言葉ほど、イエス様のご生涯を、心を、生き様を的確に言い表している言葉は無いと言っても過言ではありません。イエス様のご生涯は、まさに「他人は救ったが、自分は救わない」という軸に貫かれており、イエス様は、「神様のために」「人々のために」ということを貫いていらっしゃる、そのことを記しているのが聖書です。イエス様ご自身の名誉のためとか、名声、功徳のためといったことは何一つとして語られていません。
 一見、されるがまま、成す術無しのようにようにしか見えないイエス様ですが、汗が血の滴りになる程まで祈りに祈り、神様と向き合われた結果、十字架を引き受けられたイエス様の中には、この心が満ち満ちていらしたのです。