主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋宏幸
今日の福音書は霊的にも大変美しく、イエス様とある女性との間で織りなされた対話を軸に描かれています。
ところが、この女性はサマリア人ということもあり、これまで低くみられてきたと想像できる上、「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」というイエス様の言葉が伝えているような女性です。加えて、福音記者は事件が起こったのは「正午ごろのことである」という一言を加えています。
イエス様は暑い最中、井戸の辺で休んでおられ、弟子たちは食べ物を調達に出掛けている不在時に、この女性が水を汲みにやって来きました。通常、生活に不可欠な水を汲みに来るのは、余程の事が無い限りは朝に行う仕事でした。しかも、この地方では灼熱のような状態になる昼の時間帯に水を汲みに来て、帰りは重い水を担いで帰るという事を普通はしないようでした。想像してみますと、人と顔を合わせなくて済む時間帯に敢えて水を汲みにやって来なければならない程に、人目を憚らなければならない生活をしていたと想像できます。
事の発端は、イエス様の方から「水を飲ませて欲しい」と頼まれたことでしたが、女性は「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むですか」と一端は断ります。ユダヤとサマリアは取り分け信仰上の問題で決裂して久しくなり、今や乗り越えられない程の溝が出来ています。殊に、ユダヤ人からサマリア人への侮蔑、差別には深いものがあるだけに、サマリア人の女性に躊躇いも無く「水を飲ませてください」と言われたイエス様に対して、女性の方が驚いたようです。
加えてイエス様はくむ物を持っておられず、おそらく女性から借り、命に直結する力を持つ水を飲まれたことでしょう。イエス様は、その女性とくむ物を共にされることを何の妨げともしておられないようです。それはこの女性の「渇き」を癒されることにご自身の心を添わせようとされたからでしょう。そして、どうにも満たされない「渇き」の中に女性の悲しみを見て取り、そこへ真の癒しを注ぎ込もうとされたことでしょう。
やがて、女性は礼拝の話、即ち神様の方に心を向け始めます。サマリア人は最早エルサレムで礼拝をしなくなって久しくなりますが、イエス様は「エルサレムとサマリアの何れが本家本元かでは無く、霊と真理とをもって礼拝を捧げる時がくる」「神様は、サマリア人の渇きもユダヤ人の渇きも潤し、癒して下さる神様なのだ」と言われます。
女性も応えます。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と。サマリア人の渇きもユダヤ人の渇きも潤し、癒して下さる神様に礼拝を捧げる時を待っていた彼女は、真に求めていた方、渇きを潤し満たして下さる方に出会い、神様の愛と憐れみ、赦しで満たしていただくことになりました。