復活前主日の黙想
「復活前主日」は別名「棕櫚の日曜日」とも言われ、イエス様のエルサレム入城を記念しています。しかし、今日の福音書(マタイによる福音書第27章)は、群衆の歓呼の声の中を進まれるイエス様ではなく、むしろご受難の話です。そして、イエス様への誹謗中傷、冒涜の言葉が次から次へと、これでもかという位に出てまいります。
その中で、次の言葉がイエス様に浴びせ掛けられます。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」。
祭司長、律法学者、長老たちの言葉ですが、言っている当事者たちの心中はともかく、これ程までにイエス様のご生涯を的確に言い表している言葉、真理を突いている言葉は類を見ない程です。イエス様のご生涯は「他人は救われるが、ご自分は救わない」、そういう生き様、信念に貫かれていました。そして、イエス様がそうなさったことの全ては神様が命を吹き込まれた人間のため、私たちのためであり、ご自分の利益のためではないということを聖書は伝えています。
また、「これ(十字架)は全て神様の御心であり、その神様の御心とは罪の赦しそのものなのだ!」と言われるように、イエス様ご自身の得とか名誉、名声のためといった事柄は何一つ触れられていません。
私たちは自分の罪を意識し始めた時、自分を責めて、責めて、責め続け、負のレッテルを自分で自分に張り付けもすします。しかし、イエス様が十字架の上での命懸けの言葉の中で伝えていらっしゃること、私たちの心へ一直線に注ぎ込んでいらっしゃるものとは「そういうあなた自身を、あなたの罪をさえも私に差し出し、捧げなさい!」ということです。「自分で自分を責めるだけで終わらせるのではなしに、私に差し出し、捧げなさい。そのために、私の十字架があるのであり、甦りが控えているのだ」と言われます。だからこそ、イエス様は「今すぐ十字架から降りるがいい」と暴言を吐かれた時、「私は、あなたの罪を受け止める!あなたの罪を一緒に背負う、だから決して降りない!」と言われんばかりに十字架を手放されませんでした。
そして、その一連の出来事の中、あの有名な御言がイエス様の口から発せられました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と。一見、絶望的な言葉にも聴こえる言葉ですが、実は途轍も無い勝利の宣言であります。単なる絶望的な叫びではなく、諦めの境地を告げられたのでもなく、無神様へのクレームをぶつけているのでもなく、神様と一つで在ろうとなさるイエス様の力強い信仰と従順を謳い上げている言葉です。
手と足を釘と槍で刺され、舌は顎に付き、喉はカラカラといった極限状況に在ってさえも「十字架を自分のためでは無く、人々のために背負うこと、これこそまさに神様の御業であり、尽きることも、変わることもない御心なのだ!」とおっしゃりながら、イエス様ご自身「神様と今まさに一つになった!」という宣言もまたそこで高らかに謳われています。イエス様の十字架の上での詩篇22篇の言葉を祈りと受け止めるなら、イエス様に倣おうと努める私たちの祈りとは、誰かの重荷を、傷を私の十字架として背負おうとする心を自らの中に見出すことではないでしょうか。イエス様の御言を噛みしめながら、信仰を整えていきたく祈ります。
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