復活節第六主日の黙想


 「わたしは・・・である」という言い方はヨハネ福音書の特徴ですが、今週の福音書にあるイエス様の第一声が、「わたしはまことのぶどうの木」です。そして、そこに込められている大事なテーマとして「イエス様に、更には神様に繋がって生きるとはどういうことか?」「イエス様を信じて生きるとは?」があげられましょう。
 また、イエス様の教えと心を忠実に受け継いだ使徒聖パウロは、人間の体に準え、各々の働きと繋がりと尊重し合うことの大切さを手紙に書き残しました。人間の体の色々な部分や器官には働きや役割があり、各々が影響し合っている。従って、足は手ではないから要らないとか、体の一部ではないなどという言い分は通用しない。或いは、口が目に向かって「お前なんか要らない」と言って取り除いてしまったら、人は一体何処で物を見ることになるのだろうかということが書き連ねられています。
 しかし、イエス様やパウロが力説しても、世の中反論も出てきます。「ぶどうの木だの体の仕組みのことなら取り敢えず分かるが、人間の集団ということになったら事はそんな簡単ではない」と。しかし、イエス様ははっきりと言われます。「確かに人間一人一人違いはあるが、大元へと辿っていけば神様の命に辿り着くのだ。そして、命の大元で在られる神様から様々なものをいただきながら生かされているのだ」と。
 私たちは、神様から命を初め、諸々の賜物を授かっている尊い者であり、一人一人に与えられている人生の主人公でもありますが、私たちの人生の中には更に私たちの人知を超えた掛け替えのない主役がいらっしゃいます。その主役であられる神様との繋がりの中で私たちに託されていることは、神様を、イエス様を映し出すことではないでしょうか。とかく今の世の中、数字が幅を効かせ、効率第一主義的なところがあり、華々しい働きや目立つ事をする方が取り上げられもします。けれども、一人一人の人生や命はもっと深く、重みを秘めているもののはずです。そして、人生、それは神様が、イエス様がご自身を現され、働かれる「場」そのものです。
 聖堂に入り、ステンドグラスを通して差し込んで来る陽の光の美しさには絵も言えぬ感動を覚えますが、ステンドグラスとそれを通して差し込んで来る光は、神様と、神様のパートナーとして造られ、命を授けられている私たち人間との関係を現している気がします。お一人で全てをやって出来なくはない神様で在られながら、敢えて、この私たちをご自身のお働きの場として用いてくださる、であるからこそ神様が働かれる場、舞台として私たちは生かされ、光を差し込まれてもいるのでしょう。
 では、一体如何にしたら、そのような自分が、自分がという狭い生き方から抜け出て、より広くて自由な世界へと移って行かれるのだろうかという問いへのヒントなるが来週の福音書に収められているイエス様のお祈りでもあります。