大斎節第五主日の黙想

主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋宏幸

 今日の福音書には有名なマルタとマリアが出てきますが、この姉妹に向かってイエス様は甦りの命、神様の御業を伝えていらっしゃいます。それに先立ってある悲しい出来事が、二人の姉妹の身の上には起こっていました。それは、兄弟ラザロの死です。ラザロが死に臨む直前イエス様に知らせがなされますが、どういう訳かイエス様は「それは大変だ!私が直ぐに行って何とかしてあげよう!」とは一言もおっしゃいません。
 マルタにしてもマリアにしても、ラザロが極めて危ない状態に在るし、望みも薄らいできているだけに、こういう時こそイエス様が居て下さったならと心の底から願ったはずです。その事を二人揃ってイエス様に訴えていますが、それは魂の底から注ぎ出されたイエス様への祈りとも言えましょう。そして、人の悲しみをご自分の悲しみとして写し取られるイエス様は、遂にある事を宣言され実行されます。それは、死を以てその人の全てを終わらせようとは絶対になさらないということです。
 イエス様はラザロの元へ行かれ、声をかけられます。「ラザロ、出て来なさい」と。そもそも、イエス様は「わたしの友ラザロが眠っている」と言われますが、死んだ筈の人を指して、敢えて「眠っている」とおっしゃいます。ラザロは、私たちの先取りとして描かれてもいます。「我は甦りなり、命なり」「我を信ずるものは、たとえ死んでも生きる」、即ち「死をも乗り越え、打ち破る神様のお働きの内に、あなた方も包み込まれているのだよ!」と。
 ラザロの危篤から死への道程を目の当たりにしたマルタもマリアも、当初考えたはずです。「死んでしまった以上流石のイエス様でも手の施しようはないだろう」と。だからこそ、その死が襲いかかってくる前にイエス様が居て下さらなかった事を嘆き、悲しみ、非難したことでしょう。
 ところが、そのマルタ、マリアに向かってイエス様はハッキリとおっしゃいます。
 「そうでは無い!死は神の力の前に在ってはいか程のものでもない!」と。マルタも言います。「主よ、信じております!」と。原文通りに訳しますと、「私どもはずっと、イエス様こそ世に来られるはずの神の子、救い主であられると信じ続けてきております!」と。しかし、一方で不思議な感じもします。信じていたのなら、何故嘆き悲しんだり、批判したりしたのかと。しかし、実は、そうでは無く「イエス様こそ救い主であられるということは、既に知らされていることであり、私どもも、その信仰に授かっているのです。死をも打ち破る神様のお働きを、私たちは既に戴いているということを、今改めて確と確認しました。その信仰を私自身の中に再発見させられました!」と言えます。今、確かにイエス様の中に「我は甦りなり、命なり」「我を信ずる者は、たとえ死んでも生きる」「おおよそ生きて我を信ずる者は永遠に死なざるべし」という神様のお働きを見て取りました、そのことを、今告白致しますと。
 いよいよ再来週のご復活への備えを重ねていきましょう。