復活節第三主日の黙想


今日の福音書は、有名な「エマオ途上」の事件です。
 イエス様を慕ってきたクレオパという名の弟子と、もう一人の弟子が寂しい村を目指しますが、それは大きな支えであったイエス様を失ってしまった悲しみで心が押し潰されそうな旅であったことでしょう。エルサレムに留まる限り、イエスの弟子だということで命を狙われるかも知れないという不安と脅えから、一刻も早くエルサレムから遠ざかって行こう、十字架という世にもおぞましい事件に背を向けようという旅であったとしても不思議ではありません。
 そのような二人がエマオという村を目指している折、突如、何処の誰とも知らない人がスッと近寄って来て「何を話しているのか」と尋ねます。クレオパたちが話していたのは、ここ数日来エルサレムで起こった世にも恐ろしい事件のことでした。ところが、この男は何故かその事をまるで分かっていないかのような様子です。
 ところが、取り分け聖書(旧約)の話となると、自分が書いたか、主役でも在るかのようにやたらと良く知っています。そうこうしている内に日も傾いてきたので、一宿一飯を共にという提案がなされますが、いざ食事となると、その何処の誰とも分からない男はその場を取り仕切り始めます。そして、その男がパンを取り、感謝の祈りを唱え、それを裂いて二人に分けてくれた、とその瞬間、そこに居られる方の正体が分かりました。そこで、クレオパたちは早速踵を返して再びエルサレム、即ちイエス様を通してなされてきた神様の働きが決定的な形で完成した場所へと急ぎ始めます。
 急ぎに急いでエルサレムへ戻り、自分たちが先程目の当たりにした事を他の弟子たちに伝えると、甦りのイエス様がシモンに現れたという話を聞かされます。この後、ルカによる福音書では、イエス様がお出でになり「何か食べ物があるか?」とおっしゃったので、急いで焼いた魚を一切れ出すと、皆の前でイエス様が食べられたという話が続きます。
 イエス様に召され、寝食を共にした人たちは、命を支える食べ物を分け合うところにイエス様がいらっしゃるという事を描きながら、「イエス様とは、一体どういう方なのか?」という事を示し、伝えようとしています。ちなみに、キリスト教の歴史の中「イエス・キリストとはどういう方なのか?」という問いや議論は絶えることがありませんでした。勝手な想像や決め付けもありましたが、イエス様に召され、寝食を共にしてきた使徒たちが心底確信し、大事にし、世界に向かって伝えずにはいられなかたイエスという方は、命を与え、養って下さることを通して人間の命の営みの最も深いところに常にいらっしゃる方です。当初、調子のいい事、恰好のいい事を大言壮語し、誰が出世頭になるかに執着していたかと思えば、散々イエス様に迷惑を掛け、無理解で裏切りもした、その使徒たちが声を大にして伝え続けているのは「イエス様がいらしてこそ、自分たちは生き、生かされていかれるのだ!」ということです。
 しかし、それから数百年後、信仰が生活の基盤であるとか、生きることそのものであると言うよりは、頭の中での事柄、損得、好みの如くに成り下がってしまった時代もありました。そういう過ちを経てきたキリストの教会は今再び、「私たちは生かされている力をどなたからいただいているのだろうか?」「その授かりものを、どう使おうとしているのか?」という所に立ち返ることが求められていると言えましょう。
 「イエス様に従っていこう!」「イエス様と一緒に生きていこう!」とする人たちは霊的なものを大事にし続けてきましたし、これからもし続けていこうという所に立っています。その中で私たちは「最後の晩餐」「エマオ途上の事件」「甦りの後度々弟子たちとなさった食事」に秘められているイエス様の心、即ち、清濁込みで私たちを受け止め、私たちの命の中で生き続けられ、働き続けておられることが絵空事ではなく、神様の働きとして本当に起こっているのだということを経験します。
 怯えていたり、十字架から遠退こうとしていたり、そういう弟子たちの中にお出でになり、再びイエス様に、十字架と復活に向き直させ、引き戻されるイエス様の恵みに今朝もまた感謝をもって与りたいものです。