大斎節第四主日の黙想

主教 フランシスコ・ザビエル 髙橋宏幸

 今日の福音書には生まれつき目の不自由な人が登場し、重要な役割を担っていますが、このような人が当時の社会でどのように見られてきたかとなりますと、気の毒にといった同情よりも、神様に見捨てられた輩として酷い扱われ方を余儀なくされ、神に呪われている徴とまで決めつけられていました。
 そうなりますと、次に人々が考え出すのは「この呪いは誰のせいなのか?」という犯人探しらしきことです。そのように同情や憐れみよりも、原因追求、原因究明に人々の関心は向けられ始めます。しかも、この男は、物乞いをして暮らしていたということは、他の人からも世話をして貰えない状況と言えましょう。
 親にしても、どうしてこのような子が、よりによって自分たちのもとに生まれたのかと嘆いている様子が福音書から窺い知れます。そして、この人自身も「何故、自分だけが、このような目に遇うのか?」と悩んだでしょう。周りの人たちに於いても「何故、この男は生まれつき目が見えないのか?」「ひょっとして、親に問題があったのではなかろうか?」「そうなら、何故親にでは無しに、罰や呪いが子の身に降りかかるのか?」と考えあぐねたことでしょう。弟子たちも、イエス様に問い掛けます。「この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか、本人ですか、それとも両親ですか?」と。イエス様は答えられます。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人の上に現れるためである」と。罷り間違えると、神様の栄光のためにこの男が恰も犠牲者となったかのように受け取られかねませんが、イエス様はあくまで神様の栄光ということを言われます。
 イエス様が泥を捏ね、その泥を目に塗ったことでしたが、一言「開け!」とおっしゃれば十分だったのではないでしょうか。目に手を当てるだけでも良かったのではないでしょうか。でも、イエス様はわざわざ土を捏ねて泥を作り、それを目に塗られます。二重に見えない、闇の上に闇を重ねられたような状態でシロアムの池へ行くように命じられます。シロアムとは「神様から遣わされた」という意味ですが、イエス様ご自身神様から遣わされた方という意味からしてシロアムで在られます。
 その意味で、「シロアムに行きなさい」とは、神様から遣わされた方に向かって突き進みなさいということであり、その方の力を、心を、憐れみを存分に受けなさいと言えましょう。その瞬間、我が身に注がれているイエス様のお働きが見え始めてきました。自分の在るべき姿、進むべき道、目指すべき方がより鮮やかに見え始めてきました。
 間もなく私たちは、神様の最大級の栄光であるイエス様のご復活に与ろうとしています。そのイエス様の甦りが、神様による私たちのための栄光として見えるように、更なる備えを整えていきたいものです。