聖土曜日の黙想


 マタイ、マルコ、ルカの福音書を見ますと、大雑把な言い方ですが、昼の十二時頃全地は暗くなり三時まで続きました。太陽は光を失い、神殿の垂れ幕は真ん中から裂ける中、イエス様は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」)と大声で叫ばれました。さらに、イエス様は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」こう言って息を引き取られました。
 その後、安息日前日の夕方になりますと、ヨセフというユダヤ人の町アリマタヤの出身の議員であり、同僚の決議や行動には同意しなかった善良な正しい人で、神の国を待ち望んでいた人がピラトのところに行き、安息日に葬りができないため、イエス様の遺体を渡してくれるようにと願い出て、遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだ誰も葬られたことのない岩に掘った墓の中に納めました。
 このように、イエス様は、確かに息を引き取られ、葬られました。その際、太陽は光を失い、死という真っ暗闇が支配し始めました。それが、今まさにイエス様を覆い始めました。
 イエス様のことを苦々しく思っていた人たちは、さぞかし「我々の勝ちだ」「あの目障りなイエスを始末できた」と思ったことでしょう。しかし、その闇のような喜びは、間もなくイエス様の甦りによって、いとも簡単に打ち崩されます。
 それに先立ってイエス様は「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫ばれ、祈られ、ご自身の霊と命を神様に託されます。この祈りも、太陽は光を失った真っ暗闇の中、すなわち、絶望と終焉の象徴とも言える死に在ってでさえも、イエス様は父なる神様を仰ぎ見ていらっしゃいます。
 このイエス様の祈りは、真っ暗闇の中に在ってさえも、神様は私たちの命を受け止め、包み込んでくださることへの証であると言えましょう。しかも、この祈りは闇へ、終わりに向かう祈りとは全くなり得ませんでした。
 一方で、イエス様の弟子たちはじめ、多くの人々の心は「今や、全ては終わった!」「イエス様は、最早過去のかたになってしまわれた!」という落胆、絶望的な思いで覆われ尽していたことでしょう。
 しかし、そこには、そういう思いを覆す程の神様の力、人知を超えた神様の計り知れない「いのちの出来事」が待ち受けています。
(https://trustliveserve.files.wordpress.com/2013/03/garden-tomb.jpg)