事の起こりは、甦りのイエス様が使徒たちの元へいらした時、トマスだけがその場に居合わせなかったことでした。トマスにしてみれば悲しく、悔しかったでしょうが、後々その事がイエス様の心中深くに秘められている素晴らしい祝福に与ることへのきっかけになりました。
甦られたイエス様がその日の夕刻、弟子たちが怯えながら肩を寄せ合い、戸には鍵まで掛けている所へお出でになります。そして、イエス様は弟子たちに再び立ち上がり、この世の荒波に向かって送り出すために神様の力を、復活の命を、息吹を吹き込まれます。その事があって暫く経ったところへトマスが戻って来ますが、トマス以外の弟子たちはといえば、マグダラのマリアたちから「イエス様は、本当に甦られた!」と聴かされた時とは打って変わって、今度は自分たちで甦りのイエス様を確と目の当たりにしているだけに、興奮覚めやらなかったことでしょう。そこで、戻ってきたトマスに向かって言います。
「トマスよ、イエス様は十字架で息を引き取られたままではなかった。マリアたちが言ったように本当に甦られたのだ! 現についさっき此処にいらして、我々の臆病さや意気地の無さ、裏切りを責め立てられるどころか、神様の息吹をかけて下さり、再びこの世の荒波に向かって歩み出す力を注いで下さったのだ!」と。
ところが、トマスはと言えば「そうか、それは本当に良かった!」とは言えず、「一体誰がそんな話を信じるものか。あの方の手に釘の跡をこの目で見、あの方の釘跡にこの手を差し入れてみる迄は信じるものか!」と素直にはなれません。そういうトマスを傲慢で意地っ張りだと言って非難するのは簡単でしょうが、トマスの心中を察すれば、「つい先日迄、イエス様と一緒に歩んで来たのに」「自分だってイエス様から直に御召を頂いた者の一人なのに、何でよりによって肝心な時に、この自分だけがその場に居合わすことが出来なかったのか」と、まるで除け者にでもされたかのような大きなショックから、意地を張りたくなる気持ちを抑えることはさぞかし難しかったことでしょう。
トマスと言えば、「イエス様と一緒に死のうではないか」と勇ましい事を口にする使徒でしたが、他の弟子たちと同じように肝心なところでイエス様を一人孤独の内に置き去りにしてしまいました。それだけに、トマスにしてみれば自己嫌悪の念も、忸怩たる思いも募っていたことでしょう。
イエス様の方から自分たちの元へとお出で下さったのに、その肝心要な時、自分一人だけが居合わせることが出来なかった一方で、他の弟子たちには裏切りを咎められるでもなく、呪われるでもなく、落伍者の烙印を押されるのでもなしに、今までと変わらずご自分の弟子であることを認めて下さり、今一度この世に向かって神様の栄光のため、イエス様に従うため息を吹き掛けてさえ下さったのに、なぜ自分が居ない時にお出でになったのだというやる瀬ない気持ちが、「お前たちが何と言おうと、一体誰がそんな事を信じるものか。自分は、あの方の手に釘跡を見、その釘穴にこの指を入れてみる迄は信じるものか!」という言葉を生み出してしまったことでしょう。
ところが、八日後、再びイエス様がお出でになり、今度はトマスもそこに居合わせます。そして、イエス様は言われます。「トマスよ、お前は、この私の手に釘の跡を見、お前の指を十字架の上で刺されたこの脇腹に差し込んでみる迄は決して信じないそうだが、それなら、さぁ今直ぐここで一切遠慮はいらない、お前の思う通りにしてみなさい!」と。そのようなイエス様のひと言ひと言の中に、「トマスよ、依怙地にもなってしまうのは分からないでもない。しかし、私の甦りを受け入れず、どうせ自分なんかと決めつけているのか、何故、もう一度、私の心を見つめよう、私の力を受けようとはしないのか?」というイエス様ならではの深い愛情が流れています。
「トマスよ、お前が私を裏切り、見捨てたのは事実だ。以前に人一倍勇ましいことを言ったのもその通りである。であればこそ、人一倍後悔の念も自責の念も、苛立ちも募っていることであろう。しかし、トマスよ、今私は此処にいてお前に赦しを与え、再び弟子として立ち上がらせ、この世に遣わそうとして神の命と息吹を与えようとしているのだよ!なのに、トマスよ、当のお前はと言えば未だ自分に閉じ籠もり、信じられないと言い張り、それに引き換え他の連中は幸運で恨めしい、あいつらの言う事など信じたくないと意地を張り、この私を見ようとも、この私に聴こうとも、信じようともしないのであれば、さぁ、トマスよ、私はお前のためにもう一度十字架のあの痛みを、苦しみを受けてあげよう、私は再びお前のために痛むことを厭わない。だから一切遠慮せずお前の指を、お前の手をこの傷に差し込んでみなさい。お前が疑っているこの十字架の傷を、神様の愛と甦りの命の徴であるこの十字架の傷を、お前の手で確と確かめてみなさい。」と。
叱責でも、厭味でも、咎め立てでも無く、唯々目の前にいらっしゃるイエス様を疑っているトマスを、この上無い程大きく包み込まれる愛の言葉をイエス様は与えられています。そこで遂にトマスは告白します。「私の主、私の神よ!」と。まさに、この方こそ、自分の苦しみ、やる瀬なさ、裏切りの一切を込みで私を受け入れ、背負い続けて下さる神なのだということを遂にトマスは自らの手に掴み取りました。
最初の日の夕方、他の弟子たちと一緒にイエス様にお目に掛かることが出来なかったトマスでしたが、八日後、イエス様によって素晴らしい祝福をいただきました。
イエス様は弟子たちの心の扉をご復活の力によって開かせました。19世紀の宗教画家ウイリアム・ハントの『世の光』という、戸口に灯を持って扉が中から開かれるのを待っておられるイエス様の絵を思い浮かべながら、心の扉を開きイエス様をお迎えしたいと思います。