主教による降臨節の黙想:降臨節第四主日

 印刷用ファイル(PDF)はこちら

 使徒聖パウロは、様々な地域に向かって書いた数手紙の中で「異教徒の多い土地では、幾らイエス様の教えを伝えようとしても、ばかげたものとしてしか受け取って貰えず、苦労し、辛い思いをしている!」ということを綴りました。しかも、ただ「ばかげている」というだけでなく、イエス様の教えやご生涯そのものが人々には躓きにさえなっていると。
 クリスマスと言えばロマンチックで、ウットリするものになりがちですが、最初のクリスマスは、それとは大きく掛け離れ、むしろ正反対であったとさえ言えます。生まれたてのイエス様や後の使徒たちにしてみれば、記憶には無くて当然かも知れませんが、イエス様を産み落としたマリアとなると記憶に無いとか、忘れたでは済まされません。
 ある日、何の前触れも無しに大天使ガブリエルがナザレという当時は名もない小さな町に住む、マリアという名の少女の元へ突如現れます。そして、突如突拍子もないことを言い出します。
 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる! あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産む」と。
 マリアは当初抗いますが、そのような事はお構い無しかのように天使は続けます。「主があなたと共におられる!」と。
 さらに天使ガブリエルは、不安と恐れで一杯の気持ちでいっぱいのマリアに告げます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」と。やがてこのことは神様からの祝福、全ての人々に及ぶ喜ばしい、感謝すべき出来事へとなっていきます。
 では、一体この事件のどこが「祝福」であり、「お恵み」なのだろうかと言いますと、短い言葉になりますが「神様が一緒におられるから!」です。それも、ただ漠然と一緒にではなく、一緒に居続けて下さることの中でマリアの苦しみ、胸が掻きむしられるような思いの一切を一緒に背負って下さる、だからこそ、お恵みであり、幸いなのだと福音書は力強く宣言します。
 もし仮に、神様が「やはりマリアには気の毒だ」ということで、この事件から外されたなら、「恵まれた方、あなたは神から恵みをいただいた」という言葉は、聖書には書き残されなかったことでしょう。
 しかし、そうではなしに、神様に何とか従いたいと努めるマリアと、神様がそのマリアと一緒に居続けようとされることの中で、マリアが背負わされているものを分け合い、背負って下さる、そして神様に仕え、献げ、従おうとするゆえに苦しむマリアと一緒になって苦しんで下さる、そういう神様のなさり方こそが、まさしくお恵みと言えましょう。。
聖書が、キリスト教が、その当初から大事にし続けてきていることとは、絶望とか不幸と思える、或いはそうとしか見て取れないような中にさえも、実は神様が確かに居続けて下さり、尚且つ一緒に何かを背負い、塗れ、歩んで下さる、そういう神様への、イエス様への信頼の上に立って、初めてキリスト教はキリスト教たり得ます。
 間もなく、神様の方から私たちの中に入り込まれ、食い込んで来られる大事件を迎えます。それを迎え入れる、私たちの備えを更に整え上げていきたく祈ります。