「大斎節を迎えて」
大斎節最初の主日には「イエス様の荒れ野での誘惑」の話を聴きます。これは「神様に立ち向かい、徹底して従い仕えていく道こそ私の歩むべき道だ!」と歩み出されるに当たってのイエス様の決断、選択、再確認の出来事とも言えましょう。ちなみに、マタイ福音書では「イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒れ野に行かれた」とあります。ところが、目撃者はいないようですので、イエス様の心の深い所で起こった葛藤が物語になったとも言われますが、誰をも差し挟ませない、イエス様と神様とだけの強く、深い結び付きの中になされたものとも思えます。
イエス様は、既にヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたということは、ご自身の進むべき道を選び取られたということでもあります。しかし、この期に及んでイエス様が選び取られた道と決断に向かって「誘惑」という横槍が入りますが、悪魔の一連の誘惑は却ってイエス様の決断と選択を強めこそしたものの、変更させ、脆弱なものにさせるものにはなりませんでした。そして、悪魔の誘惑にイエス様が打ち勝たれたのは単にイエス様個人のためだけではなく、私たちのためでもあります。そうでなければ、イエス様の働きは全ての人の救いのためであるという聖書のメッセージやそこに拠って立っているキリスト教信仰そのものが崩れかねないからです。
悪魔は空腹のイエス様目指して攻め込んできますが、既に救い主としての歩みを選び取られたイエス様にとって「食べようか、やめようか?食べたらみっともないとか、神の子でなくなる!」という選択ではなく、神様の栄光と人々の救いの為に何をすることが救い主として神様の御心に適うことなのかという所に立っていらっしゃいます。イエス様は、徒に精神論だけを振りかざすのでもなければ、反対に物質至上主義を唱えてもいらっしゃいません。そうではなく、私たちの命も生活も救いも、一切は神様の働きなしには成り立ち得ないものなのだということを、ご自身の苦しみと闘い、飢えることを通して示して下さいました、そのことを心に刻み込みながら、今年の大斎節の歩みを始めて参りたく祈ります。
今、ウクライナでの出来事はじめ、世界では私たちの心を痛ませる出来事が起こっています。恨みや憎しみは何も生み出さず、全てを打ち壊すものでしかないことを心に深く留め、イエス様に倣い、祈りを以て悪の力と闘い続けたいと思います。
「四十日四十夜、わたしたちのためにみ子を断食させられた主よ、どうか己に勝つ力を与え、肉の思いを主のみ霊に従わせ、常にわたしたちがその導きにこたえ、ますます清くなり、主の栄光を現すことができますように アーメン」
(主教 髙橋宏幸)
以 上